【君が、そこまで】  休日の昼下がり。  僕は小洒落た喫茶店の一番奥にある窓際のテーブル席で、看板メニューであるペパーミントティを飲みながら、あの男のことを待っていた。僕たちがこんな風にお日様が燦々と照りつける明るい真っ昼間に、軍施設以外のところで会う約束をすることは初めてだった。  発案者はあの男のほうで、しかも唐突な誘いだった。  予定が特に入っていなかったというのは勿論あったけれど、時間を決めて城の外で会う、という行為そのものに興味を覚えた僕は、ふたつ返事でOKした。  あの男が、約束の時間までに来るのか、それとも時間前に来るのか、はたまた遅刻するのか、何故かそれが知りたくて、僕は約束の2時間も前からここにいる。持ってきていた本も、メニューも、店に置いてある雑誌類もすべて読み終えてしまい、することが何もなくなった僕は、窓の外を歩く人々を眼に映しながら、途方も無いことを考えていた。  あの男とは、我が西方軍の大将で、名前は捲簾。  目つきも口も態度も性格も悪く、いいところがまるでない可哀相な男である。  職場の役職柄、時間と空間を共有することが多かった僕たちは、自然の流れてよく話をする関係になった。僕たちの会話は、98%中身がなかった。お互いのことを知ろうとかそういう気はないのか、と、自らに問いたいほどだ。付き合いの長さを考えてみて、お互いの家族の有無や実家の場所などを知らない現状は、どう考えても奇妙だった。  それでも僕たちは、どうでもいい会話をし続け、時間と空間を共有し続けた。それに対して疑問を感じる余地さえ、あの男は与えてくれなかった。  捲簾は自分の精神世界の中に、ある種不可侵の領域のようなものを持っている。  勿論、それは誰しも必ず持っているものなのだけれど、捲簾のその領域は無限大で、他者の侵入をまったく許さないのである。オープンマインドに見えて、あの男は自分の周囲の半径1メートル四方にエベレスト級の壁を打ち建て、すべての他者を排除し続けている。  しかし僕は、そういう関係を気に入っていた。  あの男のことが嫌いではなかったし、あの男と居る自分も嫌いではなかった。中身の無い会話をし続けていても違和感を感じないだなんて、そんな人間に出会うことなんて、そうそうないことである。これは貴重な出会いで、貴重な関係だから、動いたり変わったりすることは、あまりよくないことだとさえ思うようになっていた。  それなのに僕は今、考えてしまったのだ。  考えなくていいことなのに、思い出さなくてもいいことなのに、思い出してしまったのだ。この場所のせいだ。待ち合わせているという、非日常的行為のせいでもある。何もすることがないせいでもある。  あの男と、キスをした日のことなんて、忘れてしまってもいいことだった。  あのとき、あの男の唇はひどく渇いていて、リップクリームを買ってあげたくなるほどに渇いていて、感触としては、それだけしか覚えていない。あの男の表情も、目も、言葉も、何ひとつ覚えていない。だけど、どうしてそういうことになったのかは、まるで昨日のことのように、鮮明に、リアルに思い出せるのだ。      その日、僕の部屋はいつもと同じように絶望的に散らかっていて、捲簾がいつもと同じように、掃除をしていた。  まず床を埋め尽くした書物を紐で縛り、それから灰皿から溢れ出た吸殻をゴミ袋に放り込み、整理しきれなくなった書類を窓から放り投げ、(窓の外で部下が拾っていました)床が見えるようになったら、掃除機をかけ始めた。  僕は何もすることがなかったため、一応気休め程度に手伝ったりなんかしちゃったりなんかしようとしたら、 「余計散らかるからのけ」  と、非常に心外なことを言われたので、壁に凭れて一服していた。ちょっとだけ厭味を言われるだろうけど、まぁ最低1時間後には、僕の部屋は人の住める場所にはなっているだろうな、と思いながら。  しかし捲簾の掃除は、掃除機をかけただけでは終わらなかった。  いつもは床が見えるようになったらそこで終了、はいお疲れ様でしたという感じなのだけれど、その日は何故か、埃の溜まった本棚やらテレビやら置物やらに雑巾をかけたり、曇りに曇った窓にガラスマイペットをかけたり、押入れのビデオや本の整理をしたり、しまいには風呂掃除まで始めてしまったのである。 「何してるんですか、貴方」  尋常ではない掃除っぷりに、少なからず愕いていたので、愕いている旨を伝えるために聞いてみると、 「掃除」  と、何とも簡潔に答えられてしまった。 「それは見ればわかります。何で、風呂掃除なんてしてるんですか」 「汚ぇから」  またも簡潔、尚且つどうでもいい返答をされた僕は、捲簾が少し疲れていることを悟った。 「イラついてますね」  そのときの僕は、相当アホだった。 「疲れてますね」  と、慮るように言えば良かったのに、捲簾の苛立ちと疲れを助長させるような無表情で、そう言ってしまったのだ。何か言葉を返してくれることを待ってみたが、捲簾は何も言わなかった。僕を一瞥すらせず、バスタブを無言で磨き続けた。  少し反省した僕は、 「何か、ありました?」  と、僕なりの精一杯で優しい声を出し、聞いてみた。しかしそれでも、捲簾は振り返りもせず、 「ねぇよ。お前黙ってろ」  と、冷たい声を返してきたのである。  そこで腹を立てた僕が悪かったんだと、今だからこそ思う。 「黙れと言われたら、喋りたくなるんですけど」 「ガキかてめぇは」 「何怒ってるんですか。理由を説明してくれれば、僕も対処法を検討できるんですけど」 「お前、カンケーねぇから」 「そんなことは、この際どうでもいいです」  このときの僕は、捲簾の怒りか苛立ちか憤懣かよくわからないけれど、とにかく普通じゃない様子の原因なんて、実はどうでも良かった。ただ、僕を見ようともしない捲簾に腹を立てていたのだ。  だから、答えが返ってこなくても喋り続けた。 「これ、僕の風呂ですよ。ちなみに押入れも本棚も床も窓ガラスも、僕のです。貴方が整理とかしちゃうと、僕はこれから、何がどこにあるのか、全部貴方に尋ねないといけないんですよ。面倒臭いんですけど」  とてつもなく嫌な言い方をしてることは、自分でもわかっていた。こういう言い方をしたら、捲簾が振り返って怒ってくれると思った。僕に怒ってくれれば、あとは何とでもなると思った。  そんな僕の狙いというか願いは、空しく外れた。捲簾は相変わらず無言のまま、バスタブに足を乗り上げて、何と天井を拭き始めたのだ。 「無視は、お互いのためにあんまり良くないと思うんですけど」  ここは譲歩だ、と判断した僕は、穏やかな声色を装ってみたが、それでも捲簾は僕を無視した。  ちょっと、血管が切れそうになった。 「いいですよ、もう。無視されても僕は酔っ払いのオヤジのようにエンエンと喋り続けますから」  既に意地になっていた僕は、蛙灰皿を風呂場に持ち込み、長期戦覚悟で喋り続けることにした。 「貴方の怒りの原因を当ててみます」 「次の出兵の理由が気に入らない。天帝がアホなことなんて今更ですよ。当たりですか」 「部下が誰かに苛められて、それをかばったら逆に部下が怒った。具体的過ぎますね、これ。過去にこういうのありました、そういえば。当たりですか」 「このところの連日の出兵に疲れた。僕は疲れてます。当たりですか」 「朝起きて食堂に行ったら、好物の茶粥が売り切れてた。あれ美味しいですよね。当たりですか」 「付き合ってる女性にフラれた。あんまりヘコみそうにないですね貴方。当たりですか」 「買い溜めしていた酒を部下に飲まれた。酒好きに育てたのは貴方ですよ。当たりですか」 「なけなしの貯金で買った釣竿が折れた。これはヘコんでもいいですよ。同情します。当たりですか」 「昨夜の戦勝パーティでの、うんこ頭のスピーチが気に入らない。僕もです。当たりですか」  僕は、喋り続けた。とにかく喋り続けた。ただひたすらに喋り続けた。何故こんなことをしてるのかすらわからなくなっていたけれど、それでも喋り続けた。質問をやめたら、何かが終わったり始まったりするような気がして、それがあんまりいいことではない予感がしたので、こうなったら声が枯れるまで喋り続けてやるとすら思っていた。  多分、捲簾も意地になっていたのだろう。僕の存在なんてなかったことにして、ひたすら天井を拭いていた。とっくに汚れなんて取れて、天井の塗装が若干剥げ始めているのに、それでも天井を拭き続けていた。  ここまでくれば、我慢比べだった。  僕の質問が絶えるか、捲簾が僕を振り返るか。    一体どれくらいの時間、こんな不毛なことをしていたのだろう。日付は、多分変わっていたと思う。正確な時間は、風呂場なのでわからなかった。吸殻を捨てて綺麗になったはずの蛙灰皿からは、二種類のフィルターと灰で溢れ返っていた。  さすがの捲簾も腕が疲れてきたらしく、天井を拭くのをやめて、水の入っていないバスタブの中に腰を降ろして俯いていた。僕も立っているのが辛くなっていたので、風呂場の入口に椅子をもってきて、そこに座っていた。 「食堂でメロンパンを買ったらお釣りが間違えられていた。当たりですか」  それでも、僕の質問は続いていた。  怒っている理由を当てる質問だったことも忘れ始めていたし、捲簾が聞いてるかどうかを確認するのも面倒になっていたので、凄まじくどうでもいいことしか言えなくなっていたけれど、それでも続けていた。 「朝、目覚ましが鳴る前に起きてしまった。これ、ちょっと悔しいですよね。当たりですか」 「自分の部屋のカーテンの色が気に入らない。貴方趣味悪いんですってば。当たりですか」  …と、僕のどうでもいい質問はまだまだ続いていた。  そのとき、捲簾が思い立ったように立ち上がって、シャワーを手にとり、いきなり自分の顔面に水をかけ始めたのだ。  さすがの僕も、捲簾の唐突な行為の意味を解せず、数時間、ただの一度のインターバルも入れずに繰り返していた質問も、止まってしまった。  たちまち水浸しになった捲簾は、軍服を洗濯カゴに放り投げて、パンツ一丁というあられもない姿で風呂場から出て行った。「ちょっと、床が濡れるじゃないですか。せっかくワックスまでかけたのに」  僕は的外れで勝手なことを言いながら、捲簾のあとを追った。 「タオルならここですよ、と言いたいところですけど貴方が整理してしまったので、どこにあるかわかりません」 「どうでもいいですけど、今真冬ですよ。寒くないんですか」 「風邪ひいたら減俸ですよ。新しいジッポ欲しいって言ってたのにオジャンになりますよ、いいんですか」  一方的に僕が喋り続ける、という構図は、風呂場から出ても変わらなかった。  そのときだった。  本日何本目かわからない煙草に火をつけようとして、僕が一瞬だけ、俯いたそのときだった。口に咥えた煙草を奪われ、文句を言おうと顔を上げたそのときだった。  フィルターよりも柔らかく、紙と同じくらい渇いた感触が唇に伝わってから、何がどうなっているのかを理解するのに、しばらくの時間を要した。  ほんの1秒くらいの、短くて軽いキスだった。  僕たちは男同士で、しかも一応上官と部下という関係で、挨拶でキスをするようなお国柄でもなかった。だからそれは確実に、何かしらの意味をもつものだった。  唇が離れた後、捲簾がどんな顔をして、そして何を言ったのかは、今でもどうしても思い出せない。    僕が過去から舞い戻ってきたとき、目の前の椅子には捲簾が既に座っていて、灰皿を見てみると、捲簾の煙草の吸殻で山盛りになっていた。  僕は何も言わずに、とりあえず時計を見てみた。  約束の時間を30分以上通り越した針に、愕然とした。これでは、捲簾が遅刻したのか時間前に来たのかがわからない。僕は何のために、2時間も前にここに来ていたんだ。こんな下らない回想にふけるためか。冗談じゃない。 「来てるんなら、声かけて下さいよ」  至極当然なことを言ってみたが、 「かけたけど、気づかねぇでずーっと窓の外見てるお前もお前でしょ」  と、もっと当然のことを言われて僕は黙り込んだ。 「何見てたの」  捲簾は興味深そうに、窓の外を見渡してからそう尋ねた。 「何も見てませんでした」 「は?」 「しいて言えば、過去の残像を見てた、ってトコですかね」 「あ、考えゴトね。ラジャ」  短くそう答えてから、捲簾はニヤリと笑って僕を見据えた。 「思い出し笑いとかしてたぜ」 「もっとわかりにくい嘘ついて下さいよ」  捲簾を無表情で一蹴した僕は、冷め切ったペパーミントティを飲み干した。  すると捲簾は、やたら神妙な顔つきで僕を見据えた。 「正直に言う」 「は?」 「ホントは、声かけてねぇ」 「はあ」 「何考えてんのか、知りたくなるよーなツラしてたからお前」  僕から視点を離して、捲簾は新しい煙草に火をつけた。 「じ―――っとそいつのツラ見てたらさ。穴空くくれぇ見てたらさ」 「見てたら?」 「そいつの考えてることわかると、色々便利だな」  この男の、こういう意味不明なところで純粋ぶるところは嫌いだ。 「何言ってんですか貴方」 「いや、俺のことシカトしてエンエン考え事に耽ってるお前見てて何となくそー思っただけ」 「教えてあげましょうか」 「は?」  捲簾の視点が、再び僕の顔に戻った。目が合った。結構珍しかった。  僕らは、お互いの顔を見ながら話すことがあまりない。 「僕の考え事の内容ですよ。知りたいんでしょう?」 「ロクでもねぇことだろーから、別にいーわ」  ムカつく。 「ロクでもないことですけど、教えてあげます」 「いいっつってんだろ」 「貴方にキスされた時のこと、思い出してたんですよ」  捲簾が目を見開いて凍りついたのを見届けた僕は、心の中でガッツポーズをした。  今、扉が少し開いた。  駆け抜ければ、間に合う。 「貴方、あのとき何て言ったんですか?」 「好きだ」  今手を伸ばせば、きっと届く。

―――Fin―       366666HITありがとうございました、梔無子さん! リクエストは3つ頂いていたんですが、「可侵・不可侵」を選ばせて頂きました。 書いてて照れました(何故お前が照れる) 結局捲簾なんで怒ったんだ!というところはご想像にお任せいたします・・・。 何はともあれ、リクエスト本当にありがとうございました!

「AnyWhereButHere」の葉流様より頂きました。 宝です。家宝です。元帥と大将が天蓬と捲簾ですよ! 2人は常に真剣勝負です。傍から見たらくだらなくても大マジです。意地を貫き通した方が勝つと信じてるんです。 しかし水も滴る、パンツ一丁の大将にいきなりキスですよ。そりゃ元帥フリーズしますって。 でもそれでかっこいいんだから卑怯だよ大将。好き。 でも、上手に見えた捲簾のそもそもの不機嫌の理由が「天蓬に惹かれた自分が分からない」 ・・・だったらいいな。 葉流さんに書いていただけたこと、本気で幸せです。ありがとうございました!