「♪」 天蓬が鼻歌を歌っていた。 こいつの笑顔は外交上当たり障りなくやり過ごすためのものであって、本当に機嫌がいいときなんか稀だが、少なくとも今は気分がいいらしい。 「・・・なんて曲?」 【G線上のアリア】 「・・って言うんです。下界じゃちょっと有名な曲でしてね。好きなんですよ。」 「ふーん」 自室の壁をタペストリーがわりになりそうな勢いで覆う本棚の前で、天蓬はさっきからうろうろしている。 本当に天蓬は機嫌がいいらしく、非常に楽しそうに本棚から本を選んでは腕の中に抱え込んでいく。 そして奴が、あれを元に戻すことはないだろう。 読み終わったらその場に放置で、だからこの部屋は汚くなっていく一方だ。 数日後にまた天蓬を怒鳴りつけて、一緒になって本を拾い集める自分が非常に現実味をおびてきて、俺は思わず天蓬の姿から目をそらした。 本のこととなったら、何を言っても無駄なのは、百も千も万も承知だ。 「何て意味?」 「何がですー?」 「G線。アリアはあれだろ?オペラの独唱曲。」 「おや、よくご存知じゃないですか。」 「前に酔ったとき、お前がべらべらしゃべったんだろ。」 「そーでしたっけ?」 とぼけんな。 軍人の習性だ、たとえ酔っても記憶飛んだことねェくせに。 「G線は、バイオリンの弦ですよ。4本あるうちで、一番低い音が出る。 もともとこの曲はアリアっていうんですが、G線上だけで弾けるように編曲しなおしたバイオリン独奏曲が有名なんで、G線上のアリアで知られているんです。」 「へぇ。」 「下界の優れた音楽家の作品なんですけどね、死後もずっと忘れられていて、100年近く・・・・あ。」 間抜けな声のあと、若干の時間差があって、騒々しく、乾いた落下音が多発した。 実は少し前からその音が発生するだろうことを想定していた俺は、これといって驚くこともなく、音源に眼を向けた。 案の定。 高い棚に手を出そうと、2mくらいある脚立の上に上っている天蓬と、脚立の足元に散らばる本。 そりゃそうだ、あれだけ腕に抱え込んでそんなところに上ったら、取り落とすに決まってンだろーが。 天蓬は学力面にとどまらない賢さも持ち合わせているクセに、変なところで抜けてる。 まァ、人のこと言えたもんじゃないか。 見越してて黙ってた俺だって、相当屈折してる。 別に嫌がらせしてたわけじゃないが。 ただ、いつ自分で気づくか、見物してただけだ。 ・・・・。 やっぱ、嫌がらせ、か? ともかくも、俺はため息をついて脚立の元に歩み寄り、本を拾い上げた。 べつに罪悪感からじゃない。多分。 ってか、拾ってやるなら最初から注意してやれよ、俺。 「あぁ、すいません。」 微妙に落ち込んでみたところで上から声が降ってきたが、なぜか天蓬本体が降りてくる気配がない。 嫌な予感がして見上げてみれば。 この野郎。 そーいうそばから、また本抱え込んでんじゃねェよ。 とりあえず、目的の分だけしっかり棚から引き抜いてから天蓬はのそのそと降りてきた。 やたら分厚い本を何冊も一気に持とうとするから動きづらくなるんだ。 お前の賢い脳みそは、一回下に置いてこようとか、そのくらいの策も思いつかない最高級品か? ・・・と、面と向かって言ってやりたかったが、ため息にすり替えた。 こいつと舌戦をやりあうほどの根性も度胸もなければ、勝てない戦に挑むほど愚かでもない。 「ほら、ここに積んどいたぞ。」 「ありがとうございます。」 天蓬は本を一瞥して、へらりと嬉しそうに笑った。 ほんとに、活字が相手のときだけは、本心から笑うのな。 「お前このシリーズ、前も読んでなかった?」 「好きな本は何回読んだっていいんですよ。むしろ、読むたびに新しいものが見えてくることもありますしね。」 そう言って、天蓬は本の山に手を伸ばした。 俺はいつものように、天蓬が猫背をさらにまるめて活字を追いはじめたのを、気にも留めなかった。 それから、天蓬が再び歌いだしたG線上のアリアにも。 ・・・いつの間に寝てたんだろう。 足元から這い上がる寒さに目が覚めた。 あたりが暗い。 結構な時間寝ちまったもんだと、身を起こす。 なぜか、ある旋律が頭から離れない。 そうか、ここは天蓬の自室で、俺はソファーに横になって眠り込んじまって、寝る寸前まで、あいつが鼻歌歌ってたから。 何だっけ、ほら・・そうだ、G線上のアリア。 別に気に入ったわけでもないのに、妙に耳に残る。 ぼんやりそんなことを考えた頭を軽く振ってから、俺はあたりを見回した。 「・・・天蓬?」 返答はないし、見当たりもしない。 ったく、起こせよ。 こんな時間まで放っておくこたねぇだろ。 ・・いや、人の部屋で勝手に寝る俺も俺だが。 部屋に電気はついていない。 寝てるのか?と思わないでもないが、天蓬相手に常識が役に立ったためしがない。 本を読み始めたら、昼も夜も飯時も無くなる男だ。 多分その辺でまた活字まみれになってんだろ。 瞬きを2,3回繰り返して、俺はソファーから降りた。 ふと窓の方に目を向けると、そこは柔らかく明るかった。 ああ、電気がなくても妙にものが見えると思ったら、そうか、今日は満月か。 しくじった、月見酒でも持って来ればよかった。 ・・・・いや、今からでも遅くないか。 俺の部屋に確か取っといたいい酒があったな、持ってきて、寝てようが何してようが天蓬見つけ出して叩き起こして飲もう。 よし決定。 扉へ向かおうとして俺は硬直した。 何で気づかなかった? 人の気配に敏い俺が。 何でそこにいたのに、気配を感じなかった? 窓際の、机の、横。 床に座り込んで机に寄りかかり、本に埋もれてなお読書にふける、天蓬。 よく見かける光景、だけど。 その、月光をあびて、うっすらと、笑った。 聞こえない音を立てて、ぞわ、と、寒気が背筋に走った。 夜の冷気と相まって、体感温度が急降下する。 全身の血が、何度か下がったような。 目が、瞬きを忘れた。 そりゃ元々、迫力さえある綺麗な顔立ちしちゃいるけど。 それが営業用の笑顔浮かべてるのだって、胸焼けするほど見てるけど。 この、笑い方。 そんなんじゃない。 この世のものじゃ、ない。 「何の話?」 「彼岸から、いろんな地獄を巡っていく話なんですよ。」 今日の昼みたいに、珍しく機嫌がよかった。 いつだっけ、天蓬が前にあの本読んでたとき。 「死後の世界なんて、誰も経験した人いないじゃないですか。」 天蓬の読書熱は知ってるけど、あの時はやたらすごくて。 何日も寝ないのも食わないのも毎度のことだけど、呼吸さえ忘れてしまいそうで。 こいつが読み終わるまで、会議の日程を延ばしてやったのを覚えてる。 「だから惹かれるんですかね。僕らみたいに死のない世界に生きている人間は。」 だから、読み終わった時に聞いたんだ。 その時に、聞いたんだ。 「おもわず、連れて逝かれそうになっちゃいましたよ。」 月光のせいで、やたら白く浮き上がる肌が、生気を宿してないように見える。 思い出してしまった、あの言葉のせいだろうか。 やたら俺の呼吸の音だけ、浮いて聞こえる。 月光が冷たい熱を持って降る。 最初から、気配に気づくはずなんかない。 ここには、生きてるものの、気配そのものがない。 「天蓬」 声はもう届いてない。 不意に、また鼻歌が聞こえた。 ひどく、機嫌がよさそうな。 「G線は、バイオリンの弦ですよ。4本あるうちで、一番低い音が出る。」 こいつの機嫌がいいときなんか、ひどく稀で。 本に、身も心も没頭してる時とか。 活字に、全てを奪われてる時とか。 変に耳に残る旋律。G線上のアリア。 天蓬、おまえのG線は弦の名前なんかじゃねェよ。 もっと細くて、曖昧で、絶対的で致命的な。 線の、上。 揺らいでる、向こう側とこちら側の境で。 G線。 ギリギリ、境界線上の。 逝くな。 戻って来い、現実に。

―――Fin― あんまり活字にのめり込むと、上手く現実に帰れないことありませんか。 読書好きの人は、きっと少なからず現実逃避癖がある。 だからと言って、本読んだだけで、帰らぬ人になったらたまりませんが。