懐かしい味と匂いがした。 真っ黒に埋まった視界が、ゆっくりと離れる。 焦点を結べないほど近くにあったものが遠ざかると、ずれた眼鏡が更にずれた。 半分無自覚に押し上げると、レンズ越しにその黒いものが、あの男の形をとったのが見えた。 「・・・・何すんですか」 「別に」 捲簾の後ろには、空と、広く開けた風景だけがあった。 ああ、僕はまた・・・・置いていかれてしまった。

「心当たりはあるか?」 ・・・・いつからかは知らねぇ。 少なくとも俺が気付いた時から下界の四季が数回廻っているが、多分そのもっとずっと前からだと思う。 そしてこれが、最後の春だ。 その日は月が霞んだ夜で、花もおぼろげ、輪郭が闇に沈むような晩。 俺がその場所にいたのは本当に偶然で、寝ていた俺の目が覚めたのも、偶然だった。 ・・・・・・・あ。 ふと目線が向いた先、俺を囲む淡く白の花弁の隙間。 音も立てず気配も立てず、何かが動いた。 静かに目を凝らすと、かなり遠景に見えるそれは天蓬の執務室の窓で、ふらりと窓から覗いた白い影は、次の瞬間ふわりと外に舞った。 夜間に窓からお出かけとは穏やかじゃねぇなぁ、元帥。 窓から飛び降りたはずの天蓬は、あっという間に消えた。伊達で元帥位まで上り詰めた男じゃない、遠目にはどっちに行ったのかすら分からなかった。 興味はわいたが、仮に全力で追いかけたとしても、この距離じゃ簡単にまかれるだろう。 あいつの奇行なんて毎度のことだ。今度は何処で何してるんだか、とは思ったけど。 その時は、それでおしまい。 桜の枝の上で、俺はもう少し寝心地のいい場所を探して身動ぎ、二度寝に戻った。 ああ、そのころはまだ、その程度だったんだよ。 天蓬が天蓬じゃなかったら、とっくに事切れてたんだろうけどな。 それぐらい苛烈で鮮やかで綺麗で強ぇんだ、そいつは。 最初は、煙草。 「『僕的に何がどの辺にあったかは把握してた』んじゃねぇのか!」 会議の資料が見つからなくなったために、しょうがなくまた天蓬の部屋をあさる羽目になったとき。 「あぁ、いい風ですねぇ」 そう言ってから、天蓬は窓を閉めた。立て付けの悪い窓の蝶番が文句をきしませる。 「てめ、俺の話を聞いてるか?」 「聞いてますよ、それを貴方が引っ掻き回したからわからなくなったんでしょうが」 「引っ掻き回してんのはてめぇだ、俺のは整頓したっつーんだよ!」 怒鳴り声とともに不安定に積まれていた紙の山の一角がくずれた。 ・・・・駄目だ、埒が明かねぇ。 下手に当たりをつけてひっくり返すより全部片付けなおした方が早い。そもそもなんだこの埃は。どっから沸いて出やがった。あーもーこうなったらいっそのこと大掃除しよう大掃除。 「天蓬、出てけ」 「・・ここ僕の部屋ですよ?」 「掃除をしたいので鍛錬場でも書庫でも散歩でもいいからお出かけくださいませんか元帥。ここにいらっしゃると邪魔ですので」 「あ!書庫に新刊入れたっていってたっけ」 「行ってこい当分帰ってくんな」 天蓬は立ち上がるといそいそと出て行ってしまった。 よし、まずは入り口の棚からいくか。 ・・コツ。 足に当たった硬質な感触に床を見下ろすと、そこにはあの陶器の蛙灰皿がいた。 「・・・・・・・・」 いつも可哀想になるほど許容量をこえた使い方をされてる灰皿に、ろくに灰が溜まってない。天蓬が自分で片付けることはほぼないし、俺以外の誰かが片付けることも全くないとは言わないが、直ぐに元通りになるはずなのに。 そーいやさっき、煙草くわえてなかった気がする。あの病的なチェーンスモーカーが。 少しあいつが吸わなくなったくらいじゃ、この部屋に染み付いた甘ったるいにおいは取れねぇけど。 「お前、いつから放置されてんの?」 当然蛙は答えなかったが、心なしか寂しそうにみえた。おー可哀想に。なんだったら俺んとこ嫁に来る? ・・・って、いや、そんなことより、この部屋から資料を探さねば。 このときのことは覚えてるよ。 あの煙草の意味を知らなくたって、傍目には立派なニコチン中毒に見えてたから。いきなり止めりゃ気にもなる。 部下たちだって驚いてたし理由を尋ねたりもしてたけど、天蓬は答えなかった。あいつ、煙に巻くの上手いしな。 でも、その内隠し通すには無理が生じてきたんだろう。 当然だな。 金蝉、お前が言うことが本当なら、天蓬は死に掛けていたんだから。 次に、本。 天蓬が部屋に篭城を始めた。 その頃は丁度遠征も討伐もない時期で、そうなると天蓬が部屋にこもりっきりになっても誰も怪しまない。むしろ出てこられた方が何かあったのかと聞きたくなるような日頃の生活態度からすれば、それは非常に自然な流れだった。 流れに、見えたんだがな。 「てんぽー」 元帥室とあっては、用事もなく現れる来訪者などいない。 ただでさえ暇である時期に加え、天蓬元帥の執務室の有様は、入ったことも見たこともない下級兵にまで知れ渡っていて、好き好んでこのドアを開ける物好きなんて、それこそ極少数だ。 その極少数に入ってしまう俺も、そこまで頻繁に出入りするわけじゃないんだが。 この姿を見るのは、何度目だろう。 部屋のなかで本に埋もれて、ひたすら惰眠をむさぼる。軍人としては小柄なほうだが、一般的に見たら長身である背を小さく丸めて眠る男は、あまりに静かで。中世的な顔も合間って、可愛いという形容詞が当てはまらなくもない気までする。 起きて口を開く、戦場で指揮を執る、本を読みふけるこの男は、間違いなく天蓬なのに。 意識のないこんなときだけは。 いっそ、別人みてぇだ。 「どーすっかなー・・・」 しばらくつついたり眺めたりしてみたが、天蓬は起きなかった。 普段天蓬が引きこもるのは読書のためで、1にも2にもそれしかなくて、ほかのことは一切しない。できないのかしたくないのかは知らないが、とにかく本を片手に座り込むこと以外にないのだ。 食事も風呂も掃除も会話も・・・・・・睡眠さえも。 一応こいつも肉体的には人なわけで、くさっても軍人だし一般よりはよほど丈夫だが、無理も度が過ぎれば当然たたる。極度の睡眠不足によって気絶することはままにある。あるが、つまり普段から気絶するまで寝るということをしないんだこいつは。 それがこの、子供みてぇな睡眠時間の長さ。 ちょっとやそっと長く寝たからって、一々騒ぐほど心配性でもなければ神経質でもないが、そうじゃなくて、そうじゃなくて・・・何かが、おかしい。 パサリ 力の抜けた天蓬の手から、読みかけてた本が落ちた。 あいつが本を読まなくなるなんて、それこそ天変地異だろ?何がどうなってもコレだけはありえない。 だから周りの連中は、天蓬は部屋の中で本読んでるもんだと信じてただろうな。日頃からあの活字狂いを見てりゃ、疑う余地もないし。それに、まったく読まなくなったってわけじゃなかったし。 でも、確実に、天蓬の読書時間は睡眠時間に削られていった。 本を読まない天蓬なんか、天蓬じゃねぇ。 天蓬じゃなくなりかけてたんだ。 あいつが、奪ってったから。 それから、捕食者ども。 「外でねぇ?今日は月がいいぜー月見酒日和。」 「えぇそうですねー、明るい夜で絶好の読書日和。」 その夜、長い眠りから覚めた天蓬はむっくり起き上がると、目をこすり、あくびをし、頭を掻いて部屋を見回すと、笑顔を浮かべた白いオッサンの人形と二本足で立つ象と蛙灰皿と俺の上に同じように視線をすべらせ、だるそうに近くにあった本に腕を伸ばした。 ・・・俺はお前のガラクタコレクションに参入した覚えはない。 天蓬は一歩も動く気はないらしく、本を抱えて猫背を更に折り曲げようとしてる。 読み始めたら、寝るのとはまた別の意味で意識が飛ぶ。 待て、何のためにこの汚い部屋でお前の寝顔を眺めてたと思ってる。お前が隠してる何かを知るためだ。逃がすか。 しかし、かけてみたお誘いはあっさり袖にされた。それくらいで諦める俺じゃない。 「外でも酒飲みながらでも本は読める。っつかおまえいつまでも篭ってるとカビとかこけ生えるぞ、虫干してやるから来い。」 「虫干しって何時だと思ってんです、陽なんかとっくに落ちてますよ」 「お前は直射日光なんかあびたら融けるだろ、月ぐらいで丁度いいんだよ」 そもそもカビは菌だしこけは植物で、虫じゃないんですけどねと天蓬はまだ不満そうにぶつぶつ零したが、立たせようとその腕を掴むと、自分で立てますよといってやんわりと俺の手を振りほどいた。 ・・・・・今の。腕の細さは、なんだ。 天蓬は元々、どう間違っても体格がいいとは言えないひょろっとした体型だが、それでも、軍人として必要最低限の筋肉はついていた。はずだ。なのに、今のは。 しかし天蓬は俺のことなど気にもとめず、渋々といったように本を閉じると立ち上がった。以前と全く変わらない動作で。 「で?月見酒というからにはいいお酒あるんでしょうね?」 「・・俺を誰だと思ってんだよ」 「あぁこれは失礼しましたアル中大将」 そういいながらあいつは白衣のポケットにさりげなく煙草を滑らせた。 「ザルが自分を棚に上げてよくいう・・・」 「酔っ払いよりマシでしょう?」 軽口を叩きながら後にした天蓬の部屋は、その頃には、染み付いてた煙草の臭いも大分薄くなってきてた。 池が、騒ぐ。 それは軍舎からは少し離れたところにある庭園。大きな池を中央に、樹、花、岩と無造作に見せかけた計算づくの配置が美を誇る庭。 佇む水は深く、広がる水面はすべらかで、煌々と輝く月を静かに映し出す。 いつもは。 俺が覗き込むと、風もないのに水鏡はゆらりと波打った。 「・・・・もう少し、東の方行きません?」 俺の後ろ、5,6歩距離を置いたところで、天蓬がカチリとタバコに火をつけた。 空気がざわついてる。 いつもは凪のように停滞した場所なのに。 流れてきた久しぶりに嗅ぐ甘ったるい香に、じっと視線を向けると、天蓬はやっぱりそう簡単には止められませんねと笑った。そしてふらりと歩き出す。 ざわり。 立ち並ぶ木々に間を抜けようとする天蓬に不意に枝が伸べられ、離れていく天蓬に水が暴れて跳ねた。足元の草が逆立ち、地が震える。あたりに、殺気立った気配が立ち込めた。 気がした。 天蓬が、吸い込んだ煙を思い切り吐くのが見えた。 ふぁ、と広がる闇に淀む白。 瞬きをする間もなく、枝は戻り水は黙った。 「何してんですか、置いて行きますよ?」 少し冷えた夜の風景の中、月をバックに天蓬が振り返った。 あぁ、そうしてれば本当にきれいだこと。 良く立ってたと思うよ、マジで。 ホント意地っ張りでプライド高ぇ。 つかんだ腕は飢餓に耐える人間とか病魔に侵された人間のそれだったし、無意識に手足を丸めて眠り続けるのは体が少しでも回復しようとするせいだ。 もう起きてられる時間のほうが短いくらいに、衰弱してたはずなんだ。 それでも、わざわざあの煙草持ち出してまで俺の酒に付き合う気になったのは、もう覚悟を決めてたせいなのかもしれない。 これが、俺と交わす最後の杯になることを。 ああ、アンタが来たのはそのあとだ。 珍しく元帥室の扉がノックされ、久しぶりに顔を見せた金蝉は、たまたま起きてた天蓬の顔を見てわずかに眉間のしわを深めた。 「おい」 「・・・・・・ぁれ、金蝉?どうしました、何か用でも?」 「どうしましたはこっちだ。」 金蝉は辺りを見回すと、そのまま俺を振り返った。 「煙草は?」 「・・・・・・・は?」 「こいつの煙草はどこかと聞いてんだ」 「・・確か、この間掃除した時その辺に・・・」 俺が戸棚に近寄ろうとすると、あの金蝉が、さっさと動いてそれを取り出すと天蓬に突きつけた。 天蓬はそれを見て、その白い目蓋をふせると静かに首を振った。 金蝉といったら潔癖で、普段は目の前で煙草を吸おうもんなら、嫌そうにこっちを睨んだ上口元に手を当てて、揉み消すか出てくかの二択を無言で迫るくせに。 そもそも一般的に喫煙というのは疎まれる行為であって、禁煙は歓迎されるものだ。 こいつらが一般的の基準に当てはまるかどうかはわからないが。いや、当てはまってないんだ。 現に、嫌煙家が愛煙家に煙草を勧めて愛煙家が断るという、非常に矛盾した行為が目の前で起こっているんだから。 チ、と金蝉は舌打ちをすると、驚くべきことに自分で一本くわえた。 金蝉と煙草。 お、おそろしく似合わねぇ。 流石の天蓬もぎょっとしたように目を見張ったが、案の定ライターをつけるのに苦戦してる金蝉に苦笑を浮かべると煙草を奪い取った。 「・・・天蓬。」 「わかってます」 「わかってな・・・・ コンコン 「どうぞ?」 金蝉に続きを言わせる前に天蓬が答えた。金蝉が睨む。 「失礼します、こちらに金蝉童子様は・・・」 「何だ」 「観世音菩薩様がお呼びです、至急いらしてくださいと」 一息吸ってから、金蝉は今行くと搾り出した。 帰り際、俺に一瞥をくれて。 うん、悪ィな、来るの遅くなって。 ホントは、とっとと聞きに来たかったんだけどよ。 確信してたから。 俺がいなくなったら、天蓬が動くって。 だから、直ぐにあんた追いかけて行ったフリして、待ち伏せてたんだ。 そう、最後に、あいつ。 それは、天界にないはずものものだった。 「へぇ・・・・これはまた、絶世の美人だな」 「・・・・・・・捲簾・・・」 桜。 天蓬の後をつけて行った先にいたのは、桜だった。 そんじょそこらの桜じゃない、もっと強烈で目も覚めるような存在感の、それでいて脆く儚い下界の桜。 樹齢は正確な時がわからないであろうほど多く、幾千の年輪を重ねた幹から、天界のそのまた上の空に手を伸ばして咲き誇るさまは。 見る者の背筋を凍らせるほどに綺麗だった。 ・・・ちょっと、天蓬に似てる。 城や軍舎や町のある場所から離れた人気のないこの場所で、何者も、天界のほかの桜さえも寄せ付けず、一人天空をを見上げる花の姿は。 弱りすぎた身体で、それでも自力で歩いてきた天蓬は、桜全体が見える位置で足を止めたから。その背に声をかけると、小さく肩が揺れて、天蓬は忌々しそうな、呆れたような、ない交ぜになった顔をして、振り向いた。 「こいつ、どしたの」 「・・・・知りません。僕が気付いた時にはここにいました」 実際、知らなかったんだろう。 別に知ったところでどうにかなるものじゃなかった。 稀に下界の生き物が何かの事故や間違いで天界に迷い込むことはある。だけど、故意に持ち込むのは、いつか死ぬ不浄なものを天界に入れるのは、禁じられているから。見つかれば焼き払われるのがオチだ。 あぁ、どこかの金持ちの道楽かなんかだろうな。面白半分に無理やりつれてきたんだろ。こんな大木、迷い込むわけねぇし。 天界に咲く下界の桜は、どれだけ嘆いたろう。 潔いものが、望んでもない永遠の世界に押し込められて。 気高く散りたいのに、下界の土に返りたいのに、永久に変わらないこの怠慢な世界に、身を沈めたくはないのに。 「・・・・たまに・・・・会いに来てたんですよ」 天蓬がポツリとそう言って、ざぁ、と花が舞った。 花吹雪に煽られた天蓬は、そのまま紛れてどこかへ行ってしまいそうで。 今にもその髪から指先から、はらはら崩れて花弁に身を変えてもおかしくないような雰囲気をまとって。 天蓬は、煙草をくわえなくなった口で、小さく風を吸い込んだ。 そしてそれきり口を閉ざしたが。 軍師の勘が鈍ったのか。 バレバレなんだよ。 その光景を見ただけで、もっと、何かそれ以上のものがあることは。 「天蓬から目を離すな」 金蝉の部屋に入ると、扉が閉まりきるよりも前にこんな言葉が投げつけられた。 「あいつが煙草を吸ってる理由を知ってるか」 ・・・・理由? 煙草を吸うことに、理由をもつヤツは多分少ない。 きっかけなら、好奇心とか誰かに勧められたとか、どんなにささいでも誰しも持ってるが、そのあとはただの依存と中毒だ。 理由が、あるのか。 「あいつは昔から変なものに好かれるようでな」 金蝉は視線を落として深い息を吐いた。 類は友を呼ぶんだか何だか知らないが、とにかく、変なものだ。ああ、人じゃない。たとえば古い岩だとか、でけぇ河だとか壁に這ってる蔦だとか。どう好かれるかってのは、上手く言えないんだが。 ・・・・・うん、わかる。あいつが傍に来ると、そういう奴ら、騒ぐだろ。なんとなく、煩くなるの、分かるだろ。 あの月夜の浮ついた空気の、中心にいた天蓬を思い出す。 気付いてたのか。そう、今じゃ大分落ち着いたんだが、昔はもっとひどくてな。 憑かれるんだよ、そういう奴らに。 別に霊みてぇな形で見えるわけじゃねぇし、天蓬が操られるとかそんなんでもねぇ。目に見えるのは天蓬がどんどん憔悴していくことだけだ。だけど、感覚で分かんだ、そいつらが、天蓬を喰らってるのが。あぁ、憑かれるというより、喰われるといったほうがあってるのかもしれん。 ああいう奴らは俺や天蓬と違って単純で、・・・・素直だからな。 天蓬のことを好いて、好きすぎたがゆえに自分のものにしようとする。自分の要求どおりに。 天蓬を、喰らって、取り込もうとしやがるんだよ。 その欲望を、少し、共感できると告げたなら金蝉はどんな顔をするだろうか。 ・・・・こんなこと言わないでも分かってるだろうが、あいつはあれで甘いからな。己を好いたものを無碍に扱ったりできねぇ。どれだけ弱って、起きてもられなくなって、ぐったり寝る時間だけが増えて、痛々しいほど痩せ細っても。精神喰われて、抜け殻みてぇにされても。死に掛けても。 天蓬が抵抗しねぇから、そうなる度に見かねた俺や周囲の人間が、無理やりそいつらと引き離してた。 でも流石に疲れたんだろうな、徐々に部屋に引き篭もったまま出てこなくなった。あいつが憑かれるのって、大体外の自然物とか植物が多いから。 だからうちのババアが、煙草を教えた。 ほら、虫とかって、花火とか焚き火するとよってこねぇだろ?煙嫌がって。あれと同じだ。とくにあの煙草、臭いがキツイからアレが一番効くらしくてな。 最初は涙が浮かぶほどむせてたが、それでも天蓬は笑ってたよ。不味いと。不味いし煙いし臭いが、これでもう自分に焦がれるモノがいなくなるなら、応えてやれない愛情を捧げてくれるモノがいなくなるなら、少し美味い気がすると。 両肘を机について組んだ手を、金蝉は額につけた。 おい、心当たりはあるか? 煙草を吸うようになってから、少なくとも俺の知るがぎり、あいつは喰われそうになったことはない。煙草を吸ってれば近づいて来るモノはいないはずなんだ。 ・・・・つまり、あいつが自ら望んで、自分を喰わせてやってるモノがいるんだと思う。 「あるよ。心当たり。」 金蝉が顔を上げた。 アンタが考えたとおり、天蓬が、自分をくれてやってるモノが、いる。アンタの話と俺の見たものをあわせて考えると、そいつで間違いねぇ。 最初からなのか、天蓬を喰ってるからなのか・・・・天蓬に、似てるよ。 金蝉は俺をじっと見て、そうか、と、ゆっくりと瞬きをした。 窓からぬるい風が吹いて、花びらを連れ込む。 金蝉はしばらく黙っていたが、静かに声を吐き出した。 「俺はもう止めない。あいつが逝きたいならいけばいい。」 目を向けると、その紫暗の瞳は窓の外をむいたまま、わずかに眇められていた。 「・・・・長いことあいつを見てきたが、そろそろ、限界だろう」 甘ったるい臭いをまとわりつかせて、重い煙草で肺を染めて。 それでもあんなに強く鮮やかに生きたあの男が、もう、いいんですといったなら、見送る以外にできることなんざ、俺には無い。 俺には、な。 金蝉の長いため息が消えた後に、俺は黙って退室した。 なら、どうして、俺に天蓬から目を離すなと言った? 金蝉、お前がそこで手を引くなら。 天界の暦と下界の暦は進度が違う。 下界の春の、終わりに当たる日。 めくってもめくっても代わり映えのない天界の暦ではなく、体に浸み込んだ下界の時計軸に従うあの桜が、花を終わらせる日。 天蓬の部屋のドアは相変わらず開かなくて、窓から入った部屋の中にもいなかったから。 俺はあの桜へ向かった。 なぁ金蝉、アンタは天蓬が甘いから、己を好いたものを無碍に扱ったりできねぇんだって言ったが。 ・・・・今回は、それだけじゃねぇんだ。 風が渡る。 満開を過ぎかけた花が柔らかく舞って、天蓬の髪が揺れた。 「いい風ですねぇ」 天蓬は桜の根元に座り込んで幹に寄りかかり、穏やかな顔をして、かすれて聞き取れないほどの声で、つぶやいた。 飽きるほど聞いたこのセリフ。 ずっと不思議に思ってた。天界の風はいつも生暖かくて、気持ちいいことには気持ちいいんだが、俺には、少し物足りない。下界の風を知ってるから。それは下界を愛してたこの桜にとっても同じだろうと思うし、天蓬だって、下界の風を感じたことがあるだろうに、と。 ・・・・・うん、その切ないほどの無常さを知ってたから、だから、そう言うのか。 変わらないものに、いつまでも続くものに、安堵を覚えてしまうから。 天蓬のよりかかった木肌は、カサカサに乾燥し、パラパラと崩れ、朽ちかけていた。 天蓬は怖いんだ。 死が。 いや、自分が死ぬのが怖いんじゃない、だったら戦場で前線に突っ込むような真似するわけねぇ。 天蓬が怖いのは、他人の死だ。 誰かが目の前で死ぬのが、怖くてしょうがないんだ。 戦場であいつが真っ先に一番危険なところへ行く理由と同じだ。 誰かが死ぬのを見たくないんだよ。 死ななきゃいけないなら、誰かが逝くのを見ないように、自分が一番先に逝きてぇんだ。 桜は、もう枯れかけていた。 この春が最後で、これが終わりの花で、もう葉を芽吹く力も残っていないほどに。 下界のものだから、しょうがない。 だけど、天蓬には割り切れなかった。 下界から切り離され、輪廻転生からも外されて、無念に散るこの桜を、見つけてしまったから。助ける術を、持ってしまっていたから。 桜に身を預ける天蓬は、見る影もなく衰弱してた。 もう、自力で立ち上がることもできねぇんだろう。 心ももう大分喰い荒らされているのか、目も焦点がなかなか合わず、ただぼんやりとした表情をしてる。 満開を過ぎた花も力尽きて、次々と天蓬の上に降り積もる。 棺を、花で埋めるように。 天蓬は喰われてやろうと決めたんだ。体も魂も、全て。天蓬は強ぇから。 その魂を喰らったら、大桜一本、甦らすことができるから。 ああ、無駄なくらい頭いいくせに、馬鹿なんだよ。 優しすぎて、強すぎて、割り切ることも目をそらすことも、まぶたを閉じることもできなかったんだ。 ・・・・・できないなら、隠してやるよ。 お前からは見えないように。 キツイくらいに甘ったるい臭いの煙草を一本。咥えて火をつけて煙を思い切り吸い込んだ。 その臭いにすくんだのか、桜が死にたくないと叫ぶ。抗議し、最後の花を散らす。 柔らかに燃えるように巻き上がる花弁の中、天蓬の視界を覆うように近づいた。 からっぽになりかけた天蓬は、抵抗どころか反応も返さなかった。もう、連れていかれかけてるのか。 少し慌てて顔を寄せると、わずかな呼吸が聞こえた。 同時に、花の焦燥。 ああ、 それは私の糧となるのだから、 取り上げないで、 嫌だ、 止めて・・ 脳裏に響く慟哭まじりの懇願を耳にしながら、重ねた唇。 ごめん。 助けてやれるなら、俺だって助けてやりてぇよ。最後の願いなら、聞き届けてやりてぇよ。 だけど、コイツは。コイツだけは。 あげない。 息を混ぜたところから、煙を流し込んだ。 クソ甘ったるい微粒子の群れ。 天蓬は動かない。 だけどその白煙は、こいつの最後のひとかけらを喰おうとしていたモノをそっと追いやった。 ・・そんな・・・・ど・・して・・・どうして・・・・・・・・・・・ エゴだよ。 お前をここに連れてきたのも、誰かのエゴだろうし、天蓬を引き止めるのも俺のエゴだ。 お前に非はない、理由もない、ただ巻き込まれてしまっただけ。 天蓬も。 ごめん。 汚くて、ごめんな。 そして、天界にはあまりに美しく、それゆえに哀しい樹の花は、崩れた。 花も枝も力尽き、粉々に砕けて、風に飛散した。 天蓬が支えを失って揺らいだから、その背を抱きしめたまま、俺はその名残が消えるまで空を仰いでいた。 意識の戻った天蓬は、不機嫌そうに文句を吐いたが、今更ながらに少し咳き込んでその痩身を曲げた。 後も濁さず名残も残さず消えてしまったあの樹を想ってるのだろうか。 咳か煙か寂しさか、わずかに滲んだ目元をぬぐって顔をあげた天蓬の髪を、遮るもののなくなった平原を風が抜けて、揺らした。 おかえり。 「・・・・ただいま。」 綺麗な男が隣で言った。

「花喰いの春」   サイト:珈琲画布   著:梔嘸子 聲   2006,04 「スキトキメキトキス」参加作品。 の、つもりだったんですけど、 テーマと著しくかけ離れている気がします、ものすごくごめんなさい。 最後までお付き合いいただきましてありがとうございます。 嫉妬話。 捲簾の妬きかたはものすごく分かりづらいといい。絶対に天蓬に気付かれないといい。