あの無重力状態に、何を想う。 【宙天落下】
「・・・・天。」 呼んでみた声が届いた気配はない。 名前の一字にこんな文字が入っているからなのか。 こいつがこいつであるせいなのか。 はたまた無神経なのか、何かが欠如してるのか、ただの執念か。 たぶんどれも少しづつだろうと勝手に自己完結しながら、捲簾は首が痛くなるほどに上を見上げた。 「天蓬ー!」 少し大きめに声を上げれば、両脇に立ち並ぶ高い高い本棚に反響し、これまた高い高い脚立の上でひらひらと揺れる白衣がやっとのことで顔を上げた。 あまりに床とかけ離れているがために、軍人の中でもさらに目のいい捲簾にさえ、その顔の表情は見えない。 更にその上の天井から、煌々と振る蛍光灯で、逆光になっているせいもある。 「あれ、捲簾。いたんですか。何か御用でも?」 少し呂律の回りきっていない声だけが落ちてきた。 本に没頭していたせいだ。よくもあんなところで。 「書類不備ー。お前じゃねぇとまずいのよ、急ぎだからちょっと降りて来い」 「ここまで持ってきてくださいよ」 「・・・嫌がらせか?」 何のために, と問いたくなるほど上にある天井。床とそこを繋ぐ本棚の柱。 どうやってこんなところにこんなに莫大な量の本をつめたのだろう。 天井近くの棚はあまりに小さく見え、背表紙の題名どころかならぶ本の色も境目もわからない。 二階、三階と分けたほうが明らかに使いやすかっただろうに。 聳え立つ梯子の上、天蓬が座ってる。 「ねぇ捲簾。」 こっちは多少張り上げないと届かないのに、天蓬の声はただ落ちてくる。 音にも重力って関係するんだっけ? 「着地できる高さならいいんですよね。」 「あ?」 「つまり‘自分でどうにかできる高さ’であればいいわけですよね。 もしも貴方に、羽でも念動力でもいいですけど、自由に飛べる能力が備わったとしたら、何処まで高くても平気なんですか?」 「生憎そんな能力持ったことねぇからしらねぇよ」 だけど、樹から降りれなくなった猫は居れど、樹から降りれなくなった鳥は居ない。 そう考えれば、やはり恐怖感は消滅するんだろーか。 「『高所恐怖症』というのはね、正確には、高いところが怖い、じゃないんです。」 いつまでその話題と続ける気だ。もういい加減嫌なんですけど。この書類急ぐし。 「たとえ50cmや1Mといったような、落ちてもそうそう酷い怪我なんかしない高さにさえ、異様なほどの不安を感じて心理的に追い詰められる人の事を言うんです」 天蓬は降りてくる気配もなければ話をやめる気配もない。 「着地できない、身の危険を伴う高さに恐怖を感じるのは、誰にだって存在する本能なんですよ」 ちっとも、異常じゃない。 落下した天蓬の声が、小さく微笑んでる気がした。 「何、なぐさめてくれてんのー?」 「貴方、戦場で敵が当時多発した時、何考えて銃撃ってます?」 聞け、人の言葉を。 「何も。」 「でしょうねぇ。何も考えてない。それでも貴方は確実に敵を倒して、いまここに生き残ってる。」 天蓬はふらりと頭を揺らして天井を仰いだ。 「身体能力もあるでしょうけど、何より本能が強いんでしょう。防衛本能が。生き残るために、どうすべきかを知っている。」 「お前。・・しらねぇのか」 「えぇ。まず敵の数、位置、状況を全て見た上で、どれからどのように対処すべきか考えてからじゃないと、動けません。」 それでもお前だって生き残ってる。 あの戦場で、それだけの情報処理をこなしているのは、お前の本能じゃないのか。本当に理性なのか。 「考えなければ、動かない。」 天蓬がふらりとその脚立の狭い踏み段に立ち上がった。 遠い遠い床と俺を、真っ直ぐに見下ろす。 目をくらますこともなく。 「落ちたらぐちゃぐちゃに潰れて死ぬことを、考えようとしなければ、恐怖すらも感じない。」 異常なのは、僕の方だ。 支えに捕まることもなく、天蓬はその両手を白衣のポケットにつっこみ、いかにも不安定そうな下駄の片足を上げてふらふらと揺らした。 「いつからか知りませんが、どこかに、何か、落としてきてしまったようなんです」 それは本能か。恐怖心か。心か。 天蓬はそのままゆっくり、脚立を降りる。白衣のポケットにはいっていた手を抜き出すと、その手には煙草のパッケージか握られていたようだが、空だったらしく、ちょっと中を確認してまたポケットに突っ込み返した。 ゆらゆら揺れる、天蓬の重心。 「落し物の探し方を知ってるか」 天蓬が立ち止まった。 「あ・・ 「目線を落とす。床と同じ高さに視線を持ってくる。そんな上から探したって、見つかるはず、ねぇ。」 答えるのを許さずかぶせると、そのまま脚立の足を蹴飛ばした。 ぐらり。 高さゆえに、丈夫で安定いいように作られてはいるものの、天蓬一人落とすには十分だ。 ひらりと宙へ舞ったのは、天蓬の髪と白い裾。 俺は書類を放り出して腕を伸ばした。 天蓬。 俺たちは、飛べなくても歩いていける。地に這いつくばっていても、ちゃんと生きてる。 俺は下に居るから。 この高さなら、受け止められる。