あの星が七つに見えたなら。 【盲目の空】 「・・・飛び降りなら、俺の目の前以外でお願いシマス。」 唐突に背後から聞こえた憎まれ口と、腕を掴まれてる感触。 我に帰る前に、口が勝手に動いた。 「僕の自殺シーンなんてレアなもの、見れたらラッキーじゃないですか。」 振り返らずにそう返した。ほとんど条件反射だ。 腕を掴んでいた手が離れていく。 「冗談。そんなもん見ちまったら、飯は不味くなるし夢見も悪くなる。」 窓から落ちる寸前まで外に身を乗り出していた僕は、できるだけさりげなく重心を部屋の中に戻した。 捲簾が隣の壁に背を預けて煙草をくわえたのが、目の端に見えた。 カチ、と乾いたライターの音。 「・・・・・・・・・意外。そんな繊細な神経、貴方持ち合わせてたんですか。」 「で、何してたの?」 ・・・どこをどうしたら、で、なんて接続詞が出てくる。 今一番聞かれたくなかったことを的確についてくるのは、この男の特技だろうか。 「貴方さっき自分で言ったじゃないですか、自殺を試みてたんですよ。」 にっこり笑ってやったら小さく眉をひそめられた。求めている答えと違うのは、百も承知だ。 捲簾にならって煙草をくわえようとしたら、かじかんだ手が思うように動かない。 その段階になって初めて、常春の天界にしては珍しく、今夜は冷え込んでることに気付いた。 自覚したとたん、窓から吹き込んでくる夜風に身震いが起きる。 カチリ。 もう一度、ライターの音。 力の入らない手で何とか煙草を引き出していたのを見かねたのか、煙草を口にするとすぐに目の前に火を差し出された。 顔を近付けようとして、ふと思いつき、眼鏡に手をかけて外した。 とたんに、輪郭を失う視界。 多分捲簾は表情を動かさなかっただろうが、怪訝には思っただろう。鈍化する視界に反比例して感度のあがる第六感で、捲簾の気配を読みながら、 距離を確かめるようにゆっくり煙草の先端に火を接触させた。 口の先に灯る、チリ、と紙のこげる熱。 暖かく赤が、全てが柔らかく見える世界の中で、揺らぐ。 ああ、この光なら僕の目にも見えるのに。 ライターから離れようとすると、足もとにコツリと当たる感触。散らかしっぱなしの僕の部屋で、床に転がされてあるものは数知れない。 それでも、わざわざぼやけた視線を向けなくても、それが何であるのか僕には分かってた。 蛍光灯をさえつけ忘れていた部屋、夜闇、開いた窓の月明り。 いつもと変わらない速度で口元に近づいて来る紙と灰の境目から目を離し、僕はもう一度窓に向き直った。 影と黒い軍服が境目をなくし、捲簾の姿は僕の目にほとんど見えていない。が、こちらに意識が向いたのを、皮膚と言うか空気で感じた。 心配しなくても、貴方の目の前で、飛び降りたりしない。 そう、降りたいわけじゃ、ないのだ。 僕が近づきたいのはもっと上。 ここは下界の人間が見上げる天だけど、それよりもっともっと上。天界からみる、天空。 中途半端にかけた月と、滲んだ僕の網膜に映る薄明るい空の闇。 冷えた夜風が吹き込んで、瞬きを忘れた目に痛い。 捲簾が闇から僕の隣に歩み出て、僕の視線を辿った。 「・・・・・M45?ああ、今日は綺麗に見えるな。」 やっぱり一番聞きたくなかったことを的確についてくるのは、この男の特技だ。間違いない。 メシエカタログ45番。それは冬の風物詩。冬至に南を歩くもの。プレアデス散開星団。統ばるモノ。 星は、すばる。 最も美しいと謳われたその星は、僕の目には、見えない。 僕の目は、星の位置も形もない、ただ、薄明るいのか薄暗いのか、宇宙の闇と星の光が混ざり合った、曖昧な空しか見えない。 貴方が見る満天の星空は、僕には幾つものレンズ越しに、丸く切り取られたその一部しか眺めることはできないのだ。 ポケットに手を突っ込んで、その中の眼鏡を握りしてたまま、足元に投げ捨てられた望遠鏡をそっと蹴った。 貴方と同じものが見たくて、この目で見たくて、窓から落ちるほど夢中で星を探してた、なんて、口が裂けても言えない。 皮膚に染み込むような冷気に、思わずくしゃみをしたら捲簾は問答無用というように窓を閉めた。 折角眼鏡まで外したのに、また一枚、ガラスを隔ててしまった。 それがなんだか悔しくて、透明な板の向こう、焦点の合わない空から、ずっと目をそらさずにいた。 ああ、このまま夜が明けるまで、僕はこうしているんだろうか。 ぼんやりとそんなことを考えはじめた頃、ずっと隣で煙草をふかしていた捲簾が、そっと手を持ち上げて、僕の目を覆った。 大きな手のひらが、完全に僕の視界をさえぎるまで睨み続けていた空に、結局、星は一つも見えなかった。 硬い手のひらの感触に目蓋を下すと、捲簾が小さくつぶやいた声が、冷たい空気と静かな部屋に落ちた。 「俺に見えないものを、見るな」 僕は視界一面にひろがる星を知らない。 でも、代わりに、星座の巡る空を知る貴方は、僕の見る、全ての星が溶けた淡く光る空を知らないのか。 そう思ったら、閉じた目蓋の向こう、捲簾の手のひらの闇を抜けて輝る七つの星を感じた。