じっとりと湿った暑さと、蜃気楼に反響する蝉の声。 日陰に際立つ白く抜けた指が、木陰に張り付いていた蝉の抜け殻をつまんだ。 日に赤茶けて透ける、空になった虫。 それを掲げて、焦点の合わない目がふわりと笑った。 ああ、もう、抜け殻だっていい。 【此処には居ない】 そこは古びた木造の建物だった。 古いわりに現役で使用されている建物特有の生命感があり、補修され手入れされ、それなりの頑強さと清潔感を漂わせていた。 大きめの学校にも見える二階建て、同じように並ぶ窓、長い廊下、いくつもの教室。 ただ、異様なのは窓にはめられた格子、要所要所で開閉される数多の鍵といくつかのドアにかけられた、閂。 ここは、精神疾患療養所。 心を病んだ者ばかりが集められた、病院という名の牢獄。 そして、俺の新しい仕事場だった。 一通り建物内を案内してくれた院長は至極穏やかな初老の人で、あの閂は何かと聞くと、少し決まり悪げに眉を寄せて笑った。 ここは、精神を病んだものが集まっている。中には自覚すらないまま、部屋を抜け出し外へと彷徨う者も居る。 帰れなくなったなら皆で探し出すまでだが、運悪く事故にあったり、そのまま行方知れずになるものも後を絶たない。 それゆえ、ああして迷い出てしまわないようにしているのです、と。 俺が黙ったままでいると、院長は物憂げな視線を静かに窓の外へ投げた。 望ましい話じゃないのは百も承知。ただ、門に人を置いても、出入り口を閉ざしても、眼を盗む者は無くならなかった。 せめて、行方知れずになる方がいいか、幽閉されるがいいか選ばせてやりたいが、もうすでに正気をなくしているものも多い。 しわの寄った口元から、小さくつかれたため息は無色透明。 だけど、確かに重さがあった。 そもそも、そんな選択に答えられるくらいなら、はじめからこんな所に来ないはず。 ここは、そういう場所なんです。 日に焼けた木張りの廊下に、格子の影が整列する日の午後だった。 「これからよろしく頼みますよ、捲簾先生」 渡された各病棟の鍵束は、必要以上にずしりと手に響いた。 とりあえず君には東の病棟を診て貰いますが、場合によっては他の棟も。やり方は任せますよ、カルテは各棟の診察室と文書庫にありますから。 そう教えられたが、カルテを先に見る気にはならなかった。 情報は先入観を生む。患者を診るのに予備知識は必要だが、実際に二言三言、挨拶を交わしてからでも遅くはなかろうと判断し、俺は鉄環でくくられた無数の鍵を手で弄びながら受け持つ患者の病室へ向かった。 病棟の窓から見えるのは、どこも見渡す限りの緑の森だった。夏という季節のせいもあるだろう。緑が深い、とはこういうことを言うのかと感心するほど青々とした樹々の群れ。療養所と名づけられているだけあって空気も水も良さそうだが、院長の話からすれば、この樹海はいったいい幾人の人を飲み込んだのか。 そんな新参者じみた物思いをしながら部屋を回る。 俺の新任の挨拶に、戸惑う者、友好的な者、無関心な者。印象と顔と名前を自分の頭に刷り込みつつ、俺はいくつかめの病室を出て鍵を閉めた。 次は、と思った隣の部屋には閂がかかっていた。かかった表札には‘不在’の二文字。 不在。 ・・・まるで、居るべき者が少しの間留守にしているかのような物言いだ。 空室ならば白紙にしておけばいいものを。 ひそりと体温なく黙る扉にちらりとそう思ったものの、そのまた隣の扉を引く頃にはもう、忘れていた。 「昨日は?寝れた?」 「はい」 「飯は?」 「食欲はあまり・・」 「そうか。食う寝る遊ぶは生きモノの基本だからなー。適当に忘れないよーに」 一週間ほどで、それほど多くない職員と受け持ちの患者の顔と名前、およびそのカルテの大まかな内容と現状は叩き込んだ。 カルテの内容といっても、病歴やその治療法ばかりとも限らなかった。 トン、と揃えてついた書類束の背に、日焼けて薄くなったこの場所の名前が印刷されている。精神疾患療養所。精神疾患、というのはこの場合明確な定義がない。 おかしな者。瘋癲。癲狂。物狂い。世間から外れ、外されてしまった者。 四方を樹に囲まれ、電報すら3・4日はかかるこの場所に住まう者は、症状、事情に差はあれど、‘外聞の悪い者’という一点に関してのみ共通していた。 つまるところ、厄介払いされたもの達で溢れかえっていた。 「捲簾センセー!中庭の夏みかん食っていいー?」 「いーけど用務員さんに見つかんなよ悟空ー」 「大丈夫!」 「あ、あと俺にも一個なー」 「あはは、りょーかい!」 元気よく廊下を走り去っていく子供も、またしかり。 齢4,5にして記憶のないまま彷徨っていたところを保護された。平素は朗らかな性格だが、時折、何かの加減で怒りに我を忘れると、小さな体躯からは到底見当もつかぬような力で大暴れすることがある、と薄っぺらな書類には記されている。おそらく、その無くした過去に何かがあり、無意識の底に傷を抱えているのだろう、という推測に満ちた診断も共に。 また、よく見ればこの国には珍しい色の瞳をしており、その出生をめぐって好からぬ噂まで流れたために誰も引き取りたがらず、ここに放り込まれているのだとも。 精神的外傷を負ったまま、物心つくかつかないかのうちにこんな狂人の巣窟に連れてこられ、多感な時期を過ごしてしまう少年。 なかなか気の沈む話だが、そもそもここにいる時点でみんな精神的に問題を起こしているのだ。 全員がワケアリ。 そんな中ではこんなことも珍しくはなく、治療といっても物理的に治せるものでない以上、‘話を聞く’以外に仕事の仕様がない俺は、わりと面白おかしく患者の間を渡り歩いていた。 その日、病室を転々としながら患者を診て回っていると、ふと例の‘不在’の部屋がぽかりと入り口を開けていた。 看護師が閉め忘れたのだろうか。 物置か空き部屋だと無意識に思い込んでいたが、未だ中を見たことがないことに気付き、何の気なしに、覗いた。 「名を名乗れ」 不意に、鼓膜を凛と打たれた。 あまりに場にそぐわない声音に、一瞬、白昼夢でも見たかと思った。 部屋の中は予想を違え、整えられた病室だった。まるで何かの化石みたいに、ずっと以前からそうし続けていたかのような存在感で、ベッドに背を起こした肩までの黒髪が窓に顔を向けたままそよいでいた。 人がいたのか。 「失礼、自分は新任の・・ 「名を名乗れ。汝、名も無き亡霊よ」 ・・・・・亡霊。 夏の熱烈な日差しが、部屋の彩度を落としている。 ふと、足元の感覚まで掠れた気がした。俺は、 「こんな夜更けに何をする。 その姿、勇ましき出で立ち、今は亡きデンマーク王、我が主、ハムレット様の姿そのまま。 此処をどこだか知っての上か。あぁ、何をか申せ亡霊よ」 デンマーク王、ハムレット・・・・ そうか、これは、有名な戯曲。 呆けた頭が回り始め、やっと地に足が着いた。よく見れば、ベッドの上や枕元に、いくつもの文庫が散らばっている。 台詞は本の中、舞台上のもの。俺に向けられたものでは、ない。 「『生きるか死ぬか、それが問題だ』ってヤツだっけ?」 気を取り直し、改めて開いたままのドアに拳を打ちつけ、ノック代わりにする。 室内に歩を進めるが、返答は無く、振り返る気配も無かった。 ベッドの足元側に立つと、丁度窓から風が吹き込んで、患者のその滑らかな頬を撫ぜた。 カーテンが翻る。 白いシーツ、白い壁、白い病院服。病院固有の白さに溶け込むような、石膏像もくすむ程に整いすぎた白い横顔。 それは、ひどく綺麗な患者だった。 だが、どこか、紙人形のように乾いて薄っぺらな印象を受けた。 「あんた・・ 「あらやだ、アラズさんの扉、開いたままに」 入り口のほうからした声に振り返ると、比較的年若い看護師が、慌てたように顔を出したところだった。 「あ、捲簾先生」 ガタン。 不在部屋の閂をかけ、廊下を歩きながら看護師は話してくれた。 「あぁ、そうですね、あの部屋の表札‘ふざい’って読めますよね。みんな慣れちゃってたから、先生には説明しそこなっていたようで、すみません。」 あれは、‘アラズ’って読むんです。 勿論本名じゃありませんよ?ここは・・・あまり聞こえのいい施設じゃありませんから。仮名で入っている人も多くて。 あの人は私が来る前からここに居ました。正確には分かりませんが、ここもずいぶんと長いようです。 看護師は少しうつむくと、長い黒髪がほつれて目にかかったのをかき上げ、再び前を向いた。 ご覧になりましたでしょう?あの人、声をかけても応じませんし、脈絡なく独り言を言ったりもします。ずっと、あんな感じで。こちらが言っていることを解しているのかいないのか、それすらも判らないんです。 仮名は通常、本人か家族の方がつけるのですが、本人はそんな状態ですし、聞いた話では、連れてきた方も「こちらで適当につけてくれ」とおっしゃったそうで。 それで当時の担当者が、冗談半分に‘アラズ’って呼んだんです。 “心、此処に在らず”、と。 それが定着してしまったんですよと、看護師もあまり吹聴すべき由来ではないのを心得ているように、申し訳なさそうな声で言った。 ・・・つまり。今の話を聞く限り、あの患者は既に正気を失っているように聞こえるが。 「あの人の、」 「はい?」 こちらを向いた看護師と、ぱちりと目があった。 「あの人のカルテは?この病棟の分は全部見たつもりだったのに、あの患者の名前は見た覚えが無ぇんだけど」 にこりと笑ってやると、ほのかに頬を染めて目をそらした。 「ええと、あの、多分文書庫の奥の方かと・・」 おそらく残ってはいると思いますが、あまり診察記録は参考にならないかもしれません。 こちらの言葉が届かないのでは、治療のしようがありませんので。もう、現状維持のほかには何も。治療自体していないんです。 あ、不思議なことに、よく本を開いているので本の差し入れはしていますけれど。 カルテ、探してきましょうか? 「・・・・いや、いいや。」 文書庫の端の棚から引っ張り出された紙切れは、薄っすらと黄ばんでいた。 看護師の申し出を断ったのをちょっと悔やむ程度に、風通しの悪い文書庫は蒸し暑く、それを見つけ出すには時間がかかった。 まだ、暑さに参るなんて、なぁ。 苦い笑いを口端に浮かべて、手元に目をやった。 インクがかすんでいてちょっと読みづらい。 名前の欄に‘不在’。 これまでの住所や連絡先、果ては生まれた年月すらも、空欄。 記録は、然程多くは書かれていなかった。 “ここへ来た時、齢は十七、八。 連れてきた者は、多額の金品を寄越し、これで面倒を見てくれとだけ言い置いた。 これまでの病歴や症状の変遷、思い当たる原因を尋ねたが、それすらも緘口して語らず。 当人は何も語らず、柔和で静かな面持ちをしていた。 受け入れていくらか経つ。 繰り返し会話を試みるが、声をかけても応えず。微笑みは浮かべれど、声を立てて笑いもしなければ泣きもしない。 身辺の用は自分で足せるようだが、食事・睡眠、共に不定期。 来た時より持参したいくらかの書物をよく読むので、新しいものをやったところ、手にしたようだ。 読むことができるならばと、こちらからの質問等を書いた紙と筆記用具と白紙を一緒に渡してみる。 不首尾に終わったようだ。 ある時、ふらりと病室から消える。 山中にて、泥にまみれ空を見上げているところを保護。 擦り傷等の軽症。特に予兆があったわけでも無く、この後に目立った変動もなし。出歩かないように言い聞かせるがやはり答えはなし。 それより時を置いて後、夜中に徘徊しているところを見付ける。 病室に戻し、再びあれば閉じ込めなくてはならない旨を伝える。 またしかして後、看護師が窓から落ちそうになっているところを見つけ、閂と格子のある部屋へ移動。 以後、これといって代わり映えはなし。“ 記述はそこで途切れている。その後は、あいた余白がわずかに染みを浮かべているだけだった。 気の振れた者と金で縁を切りたがるあたり、それなりの家の縁者なんだろう。文面を見ただけでも、不在をここに連れてきた者達の、過剰な黙秘の姿勢が伝わってくる。 ここもずいぶんと長いようです、そう看護師は言った。 ・・・・多分この先もずっと長くなり続けるだろう。 おそらく、扉をひろげて帰りを迎えてくれる家は、ないんだろうから。 無意識のうちにため息をついた。目の前の紙端は、それ以上を語らない。 別に、同情しているわけじゃないが。 同情できるような立場でもないし。 ふと、よくみれば名前に修正の跡があった。爪でこするとその部分はパラパラと剥げる。 下から出てきたインクの跡を矯めつ眇めつして判読すると、それはどうも‘天蓬’と書いてあるようだった。 これが、不在の本当の名前だろうか。 ア゛ー。 診察室に一人だったせいか。書類に没頭していたらしい。 聞き慣れた声にぎょっとして振り替えると、窓に触れるほど近い枝に、黒い鳥が一羽、留まっていた。 あれほど馴染んだ声なのに、驚いた自分に笑った。 ・・鴉なんて、どこにでも、いる。 あの場所じゃなくても。 「ここに、お前の喰うべき骸はねぇぞ」 俺が窓に近寄っても、人に馴れないはずの鳥は、飛ばなかった。 ノックを二回。 返答が得られないのは予想済みだが、僅かに期待してたのか、一拍待ってしまった。 「おはよーございます」 翌日、朝の回診の最後に、不在部屋の閂をあけた。 患者ではあるが、凶暴性も無く悪化するわけでもないことから、数日おきに様子を見る程度でいいと教えられたが、単に、興味を惹かれた。 不在は、昨日から微々たりとも変わらない姿でそこにいた。 ・・・・生きてるよな? 唐突にそんな不安がよぎる。自力で背を起こしているのだから生きているに決まってるんだが、そんな気にさせるほど、この患者には生気というものがない。 相変わらず返答も無いまま、格子越しの景色にばかり向かい合っているので、横顔しかわからない。 「何見てんの?」 近づいて背後から同じ方向を見てみるが、生憎他の窓となんら変わりない樹々の頭が並ぶだけだ。 ベッドの上に座る後頭部をちらりと見下ろしても、やはり置物のように黙るだけだった。 だらりと降ろされ、シーツに受け止められて仰向いた手のひらの先に、日に焼けた薄い文庫本があった。 「ちょっと、ごめん」 その手をとって、脈を探す。 触れた細い手首には低いながらも体温があり、青く浮いた血管は、とつとつと脈打っていた。 当たり前のことなのに、それがひどく不思議に感じる。妙な気分にさせる患者だ。 離すと、手首はぽとりと布団の上に落ちた。これじゃ、本当に人形と変わりない。 「そんなに外見たいなら、行くか?」 肩に手をかけ、小さく引くと、つられたようにくるりと首がこちらを向いた。 やんわり笑ったように細められた美しい患者の眼は、焦点が合っていなかった。 すれ違う患者や職員ははじめに軽く驚き、次に顔をそらしてこぼれる笑みを隠した。 いい年した男が二人、手を繋いで歩いているのだから気持ちのいいものではないはずだが、手を引かれている不在が中性的な容貌をしている上、ふわふわとした覚束ない足取りで俺に従っているせいだろう。 ・・背は、いくらも変わらないはずなんだけどな。 幼子が父親に手を引かれているように見えるのかもしれない。 素直についてくる不在に何となくそんな錯覚を起こして、ますます奇妙な気分になったが、かといって引き返す気もない。 後ろを気遣いながらいくらか早足に庭へ出た。 戸外との境目で増幅した蝉の声が、熱さにひりついていた。 東棟の庭は、建物の東側にある。中庭より狭く、あまり手入れの行き届いていない裏庭のようなものだが、東棟からしか出られないために人気もなく静かだ。 大分年季の入った木のベンチが据えてあって、俺はそこに腰を下ろした。 午前の今はちょうど陽があたっていて、生い茂る草や延び放題の蔓が夏空に手を広げていた。 不在がベンチの前に立ち尽くしたまま座らないから、俺は腕を引いて座らせようかと見上げた、そのとき。 その深い涅色の眼が、ぱちりと開かれていた。 「国破れて 山河在り、 城春にして 草木深し。 時に感じて 花にも涙を濺ぎ、 別れを恨んで 鳥にも心を驚かす。 烽火 三月に連なり、 家書 万金に抵る。 白頭 掻けば更に短く、 渾て簪に勝へざらんと欲す。」 むわっと蒸しかえるような空気の中を、ひんやりと響いた。 蝉の声が遠い。 今、長い髪の間に貼り付いていた薄い笑顔が払拭されて、明瞭に澄んだ目が、前方を見つめていた。 風が、その前で分かれ、背後でまた融け合わさって翔けていく。 俺の中を、ひゅお、と抜けた。 居るのか?そこに。 「・・・天蓬?」 日差しに影を作る長い睫毛が、瞬きを1つ。 次に目を開いたときには、瞳孔の曇った、‘不在’の、目をしていた。 「いてててて、しみるってば捲簾センセ!」 「お前が悪いんだろーが、我慢しろよ」 庭を駆けずりまわった挙句に膝をすりむいて看護師につれてこられた悟空は、じりじり痛みを訴える膝に眉を寄せた。 「だって用務員さんがすげー顔で怒るからさー」 「お前また夏みかん採ってたの?だから見つかんなっていっただろー」 「ううん、今度は無花果!すげー旨かった!」 思い出したのか、とたんに悟空はぱっと笑った。屈託のない笑顔。 それにつられて晴れやかな気分になると同時に、心臓の横に空白を感じた。 「はい、これでよし」 消毒を終えて、ぱし、と腕をたたいて促すと、悟空は元気よく立ち上がった。 ありがとー!そうだ、先生にもおすそ分け、と悟空はズボンのポケットから赤い実を取り出し、机に置いてひらひら手を振ると、また駆け出していった。 またすぐに転びそうだ。 苦笑しながら使ったガーゼなんかを片付ける。 あぁ、ここは精神科の病棟だから、血を見たのは久しぶりだ。しばらく嗅いでなかった消毒薬のにおい。 薬壜を仕舞おうとして目に入った、自分の白衣の袖の白さに、嗤った。 似合わねぇなぁ。 こんな思いをするために、俺はここに来たんだろうか。 薬棚の扉を閉めると、ガラスがガチャンと鳴った。 ここに、何があるっつーのか。 本当に、気がふれているんだろうか。 不在を庭に連れ出すのが日課になった俺は、今日もベンチから空を見上げるこの患者を眺めていた。 呆けたように若干首を後ろに倒しているから空を望んでいるようにみえるが、実際に見ているのか、あるいは頭の中で一計めぐらせているのかも、分からない。 夏空は、白い雲を切れ切れに浮かべていた。 不在は黙ったままいつもの、微笑みのようにもみえる力の無い顔付きをしていた。 痴呆患者特有、の。 正気を保っている者に、本能的に異常を覚えさせる表情だ。 いかに綺麗な造作をしているとはいえ、これなら老人と変わりない。 だが。 『名を名乗れ。汝、名も泣き亡霊よ』 あの、声。まだ耳に残ってる。 虚ろになった者が、あんなにぴんと張った声を出せるものだろうか。 しかも、よりによって、あの瞬間に。 俺に。 長いため息をついたら、ベンチに身体が沈んだ。 風はろくに無いが、上空は荒れているのかもしれない。 見上げた雲の動きは早足だった。 「国破れて 山河在り、とはよく言ったもんだよなぁ・・・・・天蓬」 人間が何しようと、草木も空も、去年までと同じ、夏だ。 「あらぁ、不在さん先生に外連れて行ってもらったの?よかったねぇ」 廊下で行き会った老婆が笑った。 不在は、あらぬ方を見て顔を緩めたままだった。 不在に構うようになってから、いくらか経ち、俺が不在をつれて歩いてももう誰も笑わなくなってから、少し経った。 状況に、変化は無かった。 気温だけが右肩上がり、夏が熱していく。 俺は不在の文字を剥ぎ落とし、天蓬と名を書き直したカルテに、診療記録を書き足し始めていた。 “手を引けばついて来るし、腕を掴み降ろせば、座る。 ただ、座れば引き上げるまで座りっぱなし。立たせれば立ちっぱなし。 必要最低限、飲み食いと睡眠は思い出したように時を構わず行うが、他に自発的な行動は、本をめくるという一点のみ。 本名と思われる‘天蓬’で呼んでみたが、やはり応えない。 しかし時折、過ぎるほどにしっかりとした声で、小説をそらんじてみたりする。 それは知覚を亡くした者にはできない芸当で、よもや佯狂かとも考えたが、狂人のふりをする必要はとんと見当たらず、また、常の呆けた面持ちは、人が演じてできるものではない。 今しばらく様子を見ようか。” そこでふと俺は筆を止めた。何でこんなに気にかける必要があるのか。 あの患者が何であれ、特に本人が苦しんでいるわけでもないし人が迷惑をこうむっているわけでもない。 治療しなくとも、このまま、ここに置いておけば何の問題もない患者を。 ・・・・・まさか、今更医者ヅラしたい訳でもなかろうに。 「捲簾先生、ちょっといいですか。」 院長が、裏の読めない穏やかな顔で俺を呼んだ。 それだけで、何の話か、わかった。 緊張しない自分が不思議で、実感がないのか諦めてるのかと心理分析を試みてもよく分かんなくて、促されるままに向かい合って、聞いた。 ゆだった空気の院長室。 「・・・そうですか。」 俺の声が落とした影もすぐに蒸発する。 院長の前の空間に、ゆるい風がぬけた。 何となく足が向いた不在の部屋では、紙のめくれる音が出迎えてくれた。 さっきまで浮ついていた現実がここにくると妙に落ち着くのは何でだか、な。 「何読んでんの。」 横から覗き込んだ。 “白い台紙に小洒落た英字。ミス・ホリデイ・ゴライトリー。名刺の住所は、旅行中。” ・・・また、似合わないものを。 「お前、ほんとに何でも読むのな。」 やっぱこれって差し入れてくれた看護師の趣味?と頁から不在の顔に視線を上げた。 不在じゃ、なかった。 「―――――、」 本を読むときはいつもうつむいていて、長い髪と眼鏡が。邪魔で。見えなかったから。 涅色の眼。 今、確かに意志を持った強い目が、文字の羅列を刺していた。 天蓬。 正気に戻ってるのか。 ・・・・戻、って。 名刺の住所は、‘旅行中’。 あぁ。 そういうこと。 唐突に、解けなかった問題が、するするとその解答式を展開していく。 そう、ここに至ってようやく俺は、‘不在’が、いかに的を射た仮名であったかを思い知った。 不在。 ・・・まるで、居るべき者が少しの間留守にしているかのような物言い。 天蓬は、気違いでもなければ佯狂でもなかった。 こいつは、ただ、あまりに深く、考え事をしているだけだ。 おそろしいほどの集中力や想像力で、完全に、上の空になっているだけなんだ。 「・・・・・天蓬。」 声をかけても、やはり答えなかった。 答えられないわけでも、答える気がないんでもない。単に、聞こえてねぇんだ。 そこにいるのに。 俺の目の前に、いるのに。 無性に寂しいような悔しいような、圧倒的な無力感を感じて、俺は為すすべなく立ち尽くしてしまった。 面白味のない現実に見切りをつけ、本の世界に行ったまま、帰ってこない天蓬。 身体だけここに捨て置いて、肝心の中身は何処にだって行ってしまう。 行けてしまう。 はらり、と白い手が頁をまくった。 天蓬の口元が、微かに笑みを浮かべていた。 本の中では、奔放なホリーが飛び回る。 なぁ、彼女の視点から見る、文字の奥の仮想世界は、楽しいか? 一所に留まらず、傍若無人に世界を渡り歩くその姿の、美しいこと。 しばらく・・・いや、どれくらい時間がかかったか知れないが、俺はその薄い文庫の裏表紙が閉じられるまで天蓬を眺めていた。 本が終わったら何処へいく? つまらない現実に、ここに、帰ってくる気はないか。 天蓬。お前がここに留まるだけの興味を引くものが、あれば。 「渡り鴉の話をしようか。」 また、焦点の消えかかった瞳に声をかけた。 小話にもならない戯言だが、聞いたことのない話をしてやろうか。 天蓬が、僅かにこちらを、向いた。 その男は外科医でな、戦場を渡り歩いてた。 医者だけど、白衣は汚れるつって、真っ黒い服着てたから、鴉って徒名がついてたよ。 別に、死にかかってる人間を自分が助けるんだ、とか、そんな高尚な情熱を持った奴じゃなかった。 単に、居場所が無かったんだ。 医術ってのは金になるからな。 食うものに困ったら、その辺の軍で治療なんかして、食い物貰って、またしばらくしたら適当に出て行っちまうような生活。 別に何処の軍の味方してるってこともないから、気が向いたまんま、本当に何処にでも行った。 いいご身分だよなぁ。 でも、人助けることを自分の食い扶持稼ぐ手段にしてるような奴だからさ、ある日いきなり、そのツケがきたんだ。 自分が診て、やっと回復してきた10代の若い兵士がいた。 まだ起き上がれるようになったばっかで、身体動かす訓練とかしはじめたとこに、敵から急襲されたんだ。 当然、そいつは逃げ遅れた。 鴉は、ずっとそんな生活してたから、自分の身の危険くらいは回避できる。 物陰から、あっちゃーもうあいつ死ぬなって、見てたんだけど。 そん時に飛び込んできて、患者に銃向けた敵の兵士ってやつが、さぁ。 ・・・・・昔、鴉が助けた男だったんだ。 やな話だろ、昔あいつ助けたばっかりに、今助けたこいつが死ぬんだ。 両方とも生かすために治したのに、そいつらが殺しあうんだぜ? 気がついたら、飛び出してたよ。 銃声と、あとなんか声がしてた気がするけど、もう、そのときには目の前全部真っ白に光って、消えた。 くだんねぇ、話だろ? 不在は天蓬の目をしていたが、「おしまい」と告げると、またどこかへ去ってしまった。 やっぱり、こんなものは興味を引くに値しないか。だろうなぁ。俺だって、面白い人生だと思っていたわけじゃない。 ・・・そう、真っ白に光って、その後の記憶が無い。 気がついたら、此処にいた。 何でだろうな。 生暖かい空気の院長室。 院長が言った。 「捲簾先生、問い合わせていた件の回答が、ようやく届きました。」 裏書きには、軍部から。 中は薄っぺらな紙切れ1枚だった。 “捲簾と名乗る黒服の軍医は、某月某日、東の戦線より少し南にそれた某駐留所にて、戦闘があった際に巻き込まれて戦死したことが確認されました” 俺に、成仏できないほどの心残りがあっただろうか。 幽霊相手に、することが無いならここに勤めてみるかと言い出した強者の院長は、また、俺がここに現われたときと同じ笑顔で、気が済むまでここにいたらいいと言った。 でも、何となく、わかったよ。 何で此処に来たのか。 帰る場所も無く戦場をふらついていた俺が。 ベッドの上では、置いていかれた天蓬の抜け殻が、静かに目を閉じた。 お前の身体は此処にあるが、お前の心は此処には居ない 俺の身体は土へと消えた、俺の心は動けない お前に心がないのなら、俺の心をくれてやる お前の身体と俺の心、足して、一人分になりはしないか。 ・・・会いに、来たんだ。 此処へ。

―――Fin― [リクエスト:虜囚] 魂の無い天蓬と、身体のない捲簾。 お互いに囚われてみたり。 何気に、 院長:次郎神 看護士:八百鼡 用務員:金蝉・・・? だったりして。 <引用> 名を名乗れ。汝、名もなき~ :  「ハムレット」/ウィリアム・シェイクスピア 国破れて 山河在り、城春にして 草木深し~ : 「春望」/杜甫 ミス・ホリデイ・ゴライトリー。名刺の住所は旅行中 : 「ティファニーで朝食を」/カポーティ ホントにベタなとこからばっかり引き抜いてみました・・・。 時代は昭和初期がよくて、でもそうするとティファニー~はまだ書かれてないはずなんですけど、そこはスルーでお願いします。 リクエスト有難う御座いました!