かつて、天界に迷い込んだ猫がいた。 下界から迷い込んだ余命わずかな猫。 悟空に愛され、やがて姿を消した、ネコ。 【行先案内の彼方】 俺には懐かなかったんだよなー、と捲簾はひとりごちた。 一度も腕に抱かせてもらえなかったが、手を伸ばしてそっと撫でた毛並みの感触を覚えている。 暖かくて、妙に切なくなる生き物の温度。 躊躇い無くあれに触れて、下界の生物にも遜色なく笑った悟空が、脳裏をよぎった。 そういえば、あいつも元々、下の生まれなんだっけ。 目の前を桜が舞った。 物思いしながら路を歩けど、桜ばかりで景色は変わらない。 風が気持ちいいのか悪いのか、微妙な生暖かさで流れていく。 んー、と伸びをしたら、桜の間から零れる空が、ひどくのっぺらな色をしていた。 静かだ。 ライターを擦ると、ジッ、と短い音だけが耳に残った。 吐いた煙が眼前を流れる。 それでもまだなんとなく物足りなくて、意味もなく鼻歌を歌った。 なんだか、なぁ。 ナァ。 「・・・・あ?」 見下ろすと、そこに猫がいた。 見覚えのある毛色、小さな体躯、媚びない瞳。 「ナァー」 この声。 「・・・お前、」 近寄ろうとするとするりと離れ、また、こっちを振り返った。 ぱたりと尻尾が揺れる。 「久しぶり、だな。」 目を合わせて、ネコはもう一声鳴いた。 とっとこ歩くネコについていく。 薄紅色の真っ只中を延びる路。 立ち止まって俺を待つくせに、触れようとするとふいと身を返す。 つれないな。・・・・そーゆーのも嫌いじゃないが。 足元を埋める花びらが、生き物の気配に浮き立つ。 ネコの前脚にくるりと寄り添い、俺の脚を避けて、また、沈む。 それを見ながら、この桜は下界のじゃないな。だけど、天界の桜でもない。と根拠も無く確信していた。 迷いなく進むネコの背中。 「な、何処行くの」 訊いた。 訊いたら何かが起こるのを知っていた。 それが、重大事項なのを、知ってた。 なぁ、俺たち、死んだよな。 此処がナタクの腹の中とも思えねぇし、死後の世界?ってやつでいいと思うんだけど。 何処に行くの。 軽い足取りでととと、と歩いていたネコは、そのまま数歩進んでから、止まった。 俺も止まった。 何処にでもいける。 ネコが言った。 ひどく真剣な表情だった。 何処にでもいける。 ・・何処にでも? 何処にでも。 お望みなら、貴方を戻してみせましょうか。 戻りたかった場所へ。 何処へ ふと思い出した女がいた。 随分懐かしい顔。 俺が軍人になってしばらくした頃、狭いカウンターのほの明るいライトの中で会った。 格別綺麗な顔立ちでもなかったが、芯が強くて、背筋伸ばして顔を上げるさまは、間違いなく美人だった。 「何が釣りたいの。」 釣りが趣味だというと、控えめなアイシャドーをいれた切れ長の目が、こっちを向いた。 「魚を釣りトラブルを釣り女を釣り。何がまだ釣れないの?」 何って。 煙草の灰を灰皿に落とす間に、視線は外れた。 カラン、と高い氷の音。 「何を待ち望んでるのか知らないけど。気をつけないと、釣竿ごと持って行かれるわよ?」 「あんたに?」 じっと見つめたら、もう一度目が合った。ぱちり、と音を立てて開いたまつ毛が、次の瞬間眉の端を下げて笑う。 酒の相手にも夜の相手にも、申し分のない女だった。 幸せにやってるといいが。 釣れない釣竿を提げたまま、ただ水面を見るだけで、満足するようになったのは何時からだろう。 釣れたのはいつ。 釣られたのは。 ぱしゃん、と水面が跳ねた。 ・・あ、と物思いから浮上する間に、もう一つ、ぱしゃん。 ぬるくなったグラスに、氷が追加される。 「どうした捲簾、考え事か?」 その上から酒が注がれ、瓶を傾ける男がこっちを覗き込んだ。 「俺とこの秘蔵酒を肴にするとは、ご大層な考え事だな」 そう言いつつも朗らかに笑う。大きな口の端を上げて、心底楽しそうに。 珍しく馬が合って、目をかけてくれたかつての上司。 俺に負けず劣らず酒好きで。あっちの酒場こっちの酒場と渡り歩き、珍しい酒を見付けたと言っては、ご相伴に預からせてくれた。 捲簾、酒は好きなもんと飲め。 恋人でも友達でも、月でも花でも星でもいい。 どんな酒でもな、好きなもん前に飲むときが一番美味ぇのよ。 酒の飲み方を教えてくれたのはこの人で、手酌の美味さを教えてくれたのもこの人だった。 独りで飲む酒が好きだった。 桜に人の言葉は要らない。だから人に見つからないような場所で、よく飲んでた。 「・・・宴を外れて手酌ですか。」 あの声が俺を見つけるまでは。 あいつ、本当に人間だったのかなぁ。 目の前の小さなネコに問いかけると、知るか、と言わんばかりにジロリと睨まれた。 なんか、花とか月とか魚とか。 そんなんと同列に並ぶような男だった。 背にした花の白さを覚えている。 「・・覚えていてくれれば、何だって」 あいつが、俺を好きなのを知っていた。 返事をしなかったのは、それが先に逝く人間のセリフだからだ。 残す者に言うセリフだ。 応えてやらない。覚えてるなんて言ってやらない。 今更おいてくなんて冗談じゃねぇ。 一緒に、連れてけ。 錆び臭い。 空も風も花もない、むき出しのパイプや鉄筋の檻。 硬い床やパネルに散った不特定多数の血が、凝固を待っていた。 こんなところに閉じ込められてたら、気もおかしくなるだろう。なぁ。ナタク。 血に塗れて、煙草を持つ感覚さえ怪しくなった手を観察しながら、目蓋を閉じた。 出血が過ぎる。 追いかけてきているであろう竜王や、置いてきた部下たちのことを頭に並べた。 さて。 どうやって俺の死体を隠そう。 「貴方も行方をくらましますね。」 不意に耳元で天蓬が言った。 ネコが姿を消したときの声だ。二度と戻ってこなかった、ネコ。 「致命傷負っても、やせ我慢してへらへら笑って、目を放した隙に足跡も跡形も残さず綺麗に消えるでしょ」 うん。 だって正しいだろ? 俺にできるのは此処までだ。 俺が消えれば、追っ手は俺を探すだろう。 金蝉や悟空を追う手を割いて、俺の行方を。 見つからない俺に、恐怖を覚えればいい。 それがほんの少しでも、あいつらの助けになればいい。 ・・優しいんですね。 貴方はいつもそうだ。 眼鏡越しの眼光が、俺を見ている気がした。 行方不明になれば、まだどこかで生きてるかもしれないと、甘く淡い希望を持っていられる。たとえずっと後になって、死んだと誰かから伝え聞いても、やっぱりそうだったのかで終わらせることができる。 そう、思わせたいんでしょう? ああ。そうだな。 あいつらも、そう考えてくれるだろうか。 最後の最後まで馬鹿正直に俺たちを慕ってくれた、第一小隊の面子。 俺が生きてると、信じてくれるだろうか。 不服そうな顔であいつが睨んだ。 此処にいなくても、目を閉じてても。痛いほど刺さる視線。 骨の一つも残さずに、消えてやるよ。 死に顔は誰にも見せない。 なかなか、上出来な最後じゃねぇか。 後悔がない。 どっかで間違ったとも思ってない。 戻る気はないし、置いて逝かれる気もない。 天蓬。 覚えておく必要はないだろ。常に隣にいるなら。 これからも隣にいるなら。 いまちょっとばかり離れるにしても。 またあとでな。 はらはらと服の上に花弁が乗る。 摘み上げたら、本当に、桜だった。 欠伸をしたネコが、俺に訊いた。 何処へ? 「先へ」 戻りたいんじゃない。 先が見たい。 また、あとで。 その、またが在る場所へ。