我輩は鴉である。 名前はまだ無い。 ・・・・故に、好きに呼んでもらって構わぬ。 【貴方の烏羽、我輩の涅】 我輩は桜の樹に住んでいる。 それは生まれた時からで、特に意図してそうしているわけではない。 ここにある樹はいつでも淡い紅色で、我輩には似ても似つかぬ。遠くから我輩を見たならば、それは無粋な染みのように見えるだろうとは思うのだが、この身を悔いたことは無い。 そんな我輩だからこそ、出来ることも、あるのだから。 我輩は、羽を広げ枝から飛び立った。 「いらっしゃい」 窓から覗くと、そう言ってこの方は穏やかに笑った。綺麗な人だ。 彼は私を手で招くと、その白衣のポケットから胡桃を取り出し、割って我輩にくれた。この方のポケットにはいつも色んなものが入っている。 床を跳ね、胡桃の欠片を啄ばみながら部屋を観察すると、今日はこの方お一人のようだった。 足元の床を静かに影が滑る。 見上げると、彼がこちらにそっと手を伸ばしていた。避ける必要は、ない。 いつものように静かに我輩の羽を撫でる。 「あぁ、いい色ですねぇ」 そう、この言葉をこぼす時の。 我輩が初めてこの方と会った時から、ずいぶん長い年月が流れている。 だから我輩は、その長さだけ、いろいろなものを見知ってきた。 例えば、こんなことも知っている。 いま足に伝わる、近づいて来る焦ったような振動の正体も、 我輩の羽を梳く気持ちのいい手が離れるタイミングも、 立ち上がり、壁にかけてあった黒服を取るこの人の動作も。 我輩はその所作の後を追った。 そう、この後に何が起こるのかも知っている。 逃して、たまるか。 「失礼します、元帥!緊急の討伐命令が下りました!」 軍服を着て振り返った、その色に。 羽が逆立った。 バサリ 風を叩く音というものは気持ちがよい。 動いた空気に薄紅の花が翻弄される、その曲線を眺めながら、今日も今日とて元帥に会うためにあの部屋へ向かう。 雲の中から抜ける気分で桜の隙間から空へ突き抜けると、眼下で声が上がった。 「うわ、鴉か。大将かと思った。」 「俺も」 黒服の若そうな男が二人。こちらをまぶしそうに見上げていた。 ここ数年、この言葉をよく聞く。大将とは、捲簾大将のことであろう。 ・・・・身に、覚えのある名だ。 「いらっしゃい、いいところに来ましたねー、さっきパンケーキ貰ったんですよ」 窓から勢いを殺さず桜の花を巻き込んで飛び込んでも、元帥は驚くことも無くいつもどおりに笑った。 この人だけは、我輩がいつ訪ねても、先ほどのように間違われるようなことは無い。 元帥は香のいいクリーム色の塊を小さく千切って投げてくれた。 それを無視して元帥の肩に飛び乗り、その手に持っているものを直接咥えると、元帥はちょっと目を見開いた。少し羽を広げて顔を覗き込むと、眉を少し寄せて笑う。柔らかい表情。 眼鏡が邪魔で、そのつるをそっと嘴ではさもうとすると、察したのか元帥は自らその野暮なガラスを外してくれた。 ぶれた焦点に、鴉羽色が映る。 この目が見る、我輩の、我輩ではない色。 これが、 コンコン ・・・・・。 手の甲と扉の打ち合う音に、元帥は眼鏡をかけ直しながらどうぞと答え、我輩は元帥から飛び降りた。 元帥は何食わぬ顔で立ち上がり、我輩は先ほど元帥がくれた床の上のパンを頂く。 「失礼します、元帥―・・・あ、また鴉来てたんですか」 入ってきた青年は軽く口笛を吹きながら、我輩に近づいてきた。何度か見かけたことがある、元帥の側近を勤める男。 逃げぬ我輩に、青年は腰を落とした。 ちゃんと向き合うのは初めてだ。 真っ直ぐ見上げる。 色素が薄めの髪に、楽しそうな濃茶の目。 ほう。・・・悪くは、ない。 「駄目ですよ」 穏やかだが凛と通った声に、我輩に伸ばしかけていた指を青年が止めた。 こちらに背を向けたまま窓を閉める元帥と我輩を見比べ、青年は苦笑して「妬けるなぁ」とつぶやいた。 青年は知らない。 元帥の言葉が、我輩に向けられたものだということを。 「天蓬ならここにはいねぇぞ」 その日、桜林の中で黒い男と会った。 特に当ても無く飛んでいただけで、元帥を捜していたわけでも、ましてやこの男を捜していたわけでもないが、我輩を見上げ、男は開口一番そういった。 花霞の中、この男の黒は異様に目立つ。我輩も、貴方のように見えるのだろうか。捲簾大将。 大将はしばらく軍服をパタパタと漁っていたが、何もねぇな、とつぶやいて酒瓶に手をやって動きを止め、我輩を見上げて「飲むか?」と聞いた。 貴方に何かを貰うつもりは無い。 我輩が頭上で羽ばたくと、大将はこちらに腕を伸ばした。 降下した我輩は速度を緩めないままその腕に着地し、ついでに力をこめて掴んでやった。 別に、恨みは無いが。 そう、これは、恨みとは言わない。 この男と会ったときのことは、よく、覚えている。 「うっわ、お前鴉飼ってんの?」 場所は元帥の部屋。 元帥と二人、静かな時間を過ごしていた折にノックも無く入ってきた男は、すげー、どうやって懐かせたんだと言いながら遠慮なく歩み寄って来た。 「飼ってるんじゃありませんよ」 元帥が答えた。 我輩はそのとき、大将には指して興味を抱かなかった。 大将は黒い。黒は、色を吸い込んでしまう。光ることはあっても、輝くことは無い。 しかし応じた元帥の声音が、いつもと少し違うような気がして、元帥を振り仰いだ。 ・・・・・・我輩は完全に大将の存在を忘れた。 初めてみる人間が居るときには、いくら傍に元帥がいらっしゃるとはいっても、やはり警戒が取れないものなのだが。 未知の黒く大きな人間は、眼中に入らなかった。 どうして、そんなもの目に入ろう。 我輩が見ていたのはたった一つ。 そのときの、元帥の といったら。 元帥の、我輩をみる目が変わってきたのは、その頃からだ。 それは歓迎すべきことでもあったし、若干の悔しさを感じるものでもあった。 今では、もう慣れたが。 「いい加減にしてくれませんかね」 元帥の部屋を訪ねると、元帥の機嫌はすこぶる悪かった。 大体分かりにくいんですよ、言いたいことがあるならストレートに言えばいいでしょう、そんな意味深な態度ばっかりとるんじゃなくて!機嫌の変わり目もあやふやだし、気に入らないなら何処がどうして気に入らないのか的確に指摘してくれればこちらも対応のしようがあるのに。そもそもね・・・ 我輩の姿を認めたとたんに始まった文句はすでに小一時間ほど続いている。 ちなみに部屋には我輩と元帥の2人きりだ。 これは相当溜め込んでいたなと思いながら、我輩はその小一時間ずっと元帥と向かい合っていた。 じつは、この時間が嫌いではない。 我輩相手に飲み込んだ言葉をぶちまける瞬間。 苛立ちと怒りでひらめく元帥は、5割り増しは綺麗に見える。 もう、これだけでいい。これが見れるだけでいい。 この激情が、我輩に向けられていないのだとしても。 「西方軍第一小隊が帰還したぞー!」 元帥の不在が続いた数日後、そんな声を耳にした。 元帥が「軍人」という職についていることも、それが元帥のいらっしゃる部隊であることも知っていた。帰っていらっしゃったのか。 それは嬉しかったが、「遠征」というものから帰ってきた元帥は、大体において数日間眠ってしまう。 すぐに行ってもどうしようもあるまい。 しかし、今回は様子が違った。 大将が我輩のところへ来たのである。 見つけた、といって桜の中にいた我輩を見上げ、ちょいちょいと手招きをする。こんなことは初めてで、興味を引かれた我輩は、大将の手がギリギリ届かないであろう枝まで降りた。 「なあ、悪いんだけど、あいつのとこ行ってやってくんない?」 どういうことだ、と次の言葉を待っていると、大将は困ったように笑った。 今回の任務、あんまり、気持ちのいいもんじゃなかったんだよ。汚いこと、いっぱいしてきたの。 俺が一人でやればよかったんだけど、ほら、あいつ、変な風に潔癖だから。自分もやるって聞かなくてさ。 でも、きっと今頃、すげー凹んでるだろうから。 分かってるなら自分で何とかすればいい、こんなときだけなんて勝手な、と抗議の声を上げれば、お願いこのとーり、と両手を合わせて拝まれた。 「あいつ、俺がいると泣けないし、俺がいなくても、泣けないから。」 我輩はあなたではない。 ・・・・・・だけど、それが我輩にしかできないことも、とうに知っている。 羽を広げ、男の上で一度旋回すると、礼を言われた。貴方への義理ではない。 あの人の居る部屋へ、風を切った。 いつもの窓枠に降りると、床に座り込むあの人がいた。 床へ飛び降り、そっと近づくと、元帥は我輩を見て、つ、と一筋涙を流した。 きらきら、ひかる。 ああ、本当に綺麗で、世話の焼ける人達であること。 最初は、元帥の気まぐれであったと思う。 その日、桜林にいた我輩はこの部屋の中に目を射る光を見た。 我輩の同属は光るものが好きだが、我輩とて例外ではない。 窓はそのときも開け放してあって、室内に物音はなく、人の気配も無かった。 我輩はそのまま失礼すると、その光に近づいた。黒い布地の上で静かに光る塊。 それは「軍服」につける「軍章」というものだと後に聞いたが、そんなこと知らなくても繊細な細工のきいた金属の塊は非常に綺麗で、価値のあるものに見えた。 一目で気に入った我輩は喜び、くちばしに咥えて持ち帰った。・・・持ち帰ろうと、した。 「それは、あげられないんです。」 動けなかった。 確かに人の気配は無かったのに、いつの間にか、いや最初から居たのかもしれない、元帥は本の山に埋もれて座っていて、いざ飛び立とうとした我輩を片手で捕らえてた。 まさか。 にわかにこの状況は信じがたい。 しかし本能はすでに、警鐘をサイレンのように振り回している。 逃げなければ。 どうやって。 どう、やって? 逃げられない。 「・・・返してくれません?」 聞こえた声は静かで、よく気付けば、我輩を掴む手も必要以上の力は込められていない。 そっと、この手の主を伺った。 カラン。 間の抜けた音を立てて我輩の口から軍章が落ちた。 もう、そんなものはどうでもよかった。 ああ、なんて美しい。 ガラス越しに、困ったようにこちらを見る視線に、こんな状態で、見蕩れた。 その目は知的な涅色で、日に透けると榛色だ。 痛烈に思った。 その目が、欲しい。 「いいですよ」 いくらこの人が賢いとはいえ、我輩の言葉は通じていなかったと思う。 しかし、この人は確かに答えてくれた。 「ただし、申し訳ありませんが、いま渡すわけにはいかないんです」 唖然とする我輩に、本が読めなくなってはいささか寂しいのでね、と何でもないことのように付け加えた。 「それに、僕の顔から外してしまったなら、この目は濁ってしまいますよ。貴方の捕まえた魚の目が、腐っていくのと同じように」 あぁ、それでは意味が無い。 我輩は、この輝く瞳を愛したのだ。 元帥は我輩を解放し、落ちた軍章を拾い上げた。 目を細める。 「それにしても貴方、いい趣味してますねぇ」 皮肉の響きは無く、本当に感嘆から出たセリフに聞こえた。 「僕と、取引しませんか」 内容を聞くまでも無く、是と答えてしまいたくなった。 この鮮やかな瞳孔と、関わりをもてるならば何でもいいと、思った。 「僕が死んだら、この目をあげましょう。死体から持ち去っても構いませんし、食べてくれても構わない。 ただし僕が生きている間、貴方、僕の話相手になってくれませんかね。」 元帥は我輩を見とめたまま、無言ではたはたと涙を零した。 濡れて輝くその眼球の光といったら。 水底から陽をうけて舞い上がる、涅の。 貴方がその色をくれるなら、我輩の鴉羽は、何にでもなろう。 貴方の望むまま。 愛玩動物でも、茶飲み友達でも。 あの黒い男の、身代わりにさえも。 我輩は鴉。天蓬元帥の、寄す処である。