何をイラついてんですか。 その声が、妙に神経を逆撫でた。 【呑み込むには安全でも適切でもありません】 いつもの訓練の後、軍舎からは少し離れた鍛錬室。 用具箱をカタンと閉めて、捲簾は軽く振り返った。 「・・誰が?」 「貴方ですよ貴方。他に誰がいるんです」 眼鏡の奥から、天蓬が面倒くさそうにこちらを見ている。 汗を拭いて帰り支度を始めていた第一小隊の面子は、何食わぬ顔で手を動かしながら、上官たちの気配を探っていた。 窓の外ではさわさわ緑が泳いでいる。 いい天気だ。 「朝から妙に不機嫌でしょうが。顔だけへらへらして何ですか気色の悪い。」 「別に。」 不穏な会話をよそに、部下達の手で床が拭き清められていく。 年季の入った床板が、黒く涼やかに光った。 天蓬の視線が張り付いてくるのを感じながら、捲簾は水場まで歩いた。 蛇口をひねって頭から水を被る。閉じた目を薄く開いたら、汗を洗い流して髪を伝った水が、ばたばた落ちて弾けて流れていった。 今日はもう予定がない。 帰って寝よう。 水を止めて顔を上げた捲簾は、取ろうとしたタオルが指先から逃げていくのを見た。 「・・・返せ」 「言ってみたらどうですか」 会話にもならない。 天蓬の手でふわふわ揺れるタオルを見ただけで無性に腹が立って、捲簾はTシャツの裾で顔を拭った。 どうせ部屋でシャワー浴びなおすんだ、構わない。 肩に髪から水滴が落ちるのを感じながら、視界から天蓬を閉め出した。 こういう時は無視に限る。 が。バッグを持って立ち上がろうとした途端、がくんと前につんのめった。 見ると天蓬の足が肩紐を踏んづけている。 ぴりっとこめかみに電気が走った。 「うぜぇなガキか!」 「だんまり決め込むへそ曲がりに言われたかぁないですねぇ」 紐を引いたが、向こうも全力で踏み締めてる。 睨んでみたところで、天蓬相手じゃ効きもしない。 思わず舌打ちが漏れた。 「朝飯の味付けが濃すぎて、昼前に赤目に捕まってお前が出さなかった報告書の説教食らって、さっき昔の部下が遠征で死んんだって知らせが来たんだよそれが何だ!」 俺の怒声を涼しい顔で聞き流しやがった優男は、ふっと鼻で笑った。 「何だ。そんなことですか」 今度こそ目の奥が真っ白に光った。 ガタンッと衝撃音で始まった乱闘は、優秀な隊員達の手で速やかに鍛練場に閉じ込められた。 頭の隅でそれを察した気はするけど定かじゃない。 目に入るのはムカつく軍事オタクだけだ。 考えるより先に身体が動いた。 踏み込む、 振りかぶった腕が大きく空を切って、天蓬が下に沈みこんだ。 最初から当たるとは思ってない。 即座に左からの下段蹴りを連動する。 後ろに飛んで避けられる、体勢を立て直す前に距離を詰めて、繰り出した左を天蓬が右腕で受けた。 飛んできた左突きをかわした流れで足を払う。 ひらり、と白衣が翻って左手を軸に天蓬が宙返った。 さすがに速い。 目測した着地点を肘で薙ぐ。 背筋を使ってタイミングをずらした天蓬は直撃をかわし、降りてくる左足にねじりを加えて叩き下ろしてきた。 甘い。 真っ向から受け止めて足首をつかむ。 引っ張るのと向こうが押し込むのは同時。 角度をつけてきた膝を足首を引き上げることで逸らせ、軸足を払う。 手応え。 傾斜する重心。 衝撃音。 「…ッ」 右肩をつかんで押し倒した天蓬の顔が歪む。 ざまぁない。 床に転がった後はもう、目も当てられない泥臭い殴り合いだった。 何気ない風を装って、鍛練場の周囲で人払いしていた第一小隊の面子は、時計を見て、それから顔を見合わせた。 「決着ついたかな」 「どーかなー…」 「お前ちょっと見てこいよ」 「やだよ!ぜってぇやだ!何で俺なんだよ」 「後輩だろうが」 「1ヶ月差だろ」 「あ。」 ガラリと戸が開いて、捲簾がすたすた立ち去るのを、彼らは遠くから静かに見守った。 「…と言うことは。」 「元帥かぁ。」 「機嫌悪いかな」 「あの人の機嫌なんか読めるかよ。」 「あーもー、じゃんけんなじゃんけん」 「「さーいしょーはぐー。じゃんけんっ…」」 見事に負けた遠目は、ぽんと背中を叩かれて送り出された。 「頼んだ!」 「お疲れー」 哀れんではくれるものの、誰も代わってくれるとは言わない。そそくさと解散する仲間を、遠目は恨めしげに見送って重い足を動かした。 並外れて強い二人の喧嘩なので、下手に片方が死んでしまうようなことはまずない。 だけど場合によっては手当てが必要だろうし、酷ければ内密に医者だって手配しなきゃならない。 勿論、内輪揉めが原因なんて言えないから、あれこれ工作が要るし、何よりその間、元帥の機嫌がいいという保証もない。 重いため息をついて、大将が去った扉から中を覗いた。 床の中央。 大の字に転がる男が一人。 観念して中に入った。 「…お怪我はありませんか」 「あー…大丈夫です・・っいたた」 ぼさぼさの頭でむっくり起き上がった元帥は、不意に顔を歪めて踞った。 慌て駆け寄り、押さえている左腕の白衣の腕をそっと脱がす。 上腕は熱をもって腫れていた。 「氷持ってきます!他にはどこかないですか?」 「んー大丈夫ですよー」 信憑性の低そうな声でのたまう元帥を残し、たらいと氷を取りに走った。 ようやく腕を冷やし、細かな傷を処置して遠目はぱたんと救急箱のふたを閉じた。 ありがとうございます、と元帥が笑う。 どういたしましてと返事をして、ようやく気づいた。 負けたにしては元帥の機嫌が悪くない。 いや、むしろ最初から妙だった。 ちょっと考えて、遠目は口を開いた。 「元帥。伺ってもよろしいでしょうか」 「何をですー?」 白衣に袖を通しながら返ってきた声は軽い。 思い切って言ってみた。 「何であんなことおっしゃったんです?」 元部下を遠征で亡くした大将に。 ‘そんなこと’なんて扱い、元帥がするはずないんだ。 「あぁ・・すみません。失言でしたね」 元帥はきちんとこっちに膝を向けた。 「貴方達の前で、仮にも上官が口にすべきじゃなった。」 頭を下げられてこちらが慌てる。 「や、いえ、そうではなくて・・!」 今更そんな一言で信頼が揺らいだりしない。それは第一小隊の皆も一緒だろう。 謝罪が欲しいんじゃない。 知りたいのは発言の意図だ。 元帥は頭を上げると、困ったように首の後ろを掻いた。 「あー。なんていうか、僕のエゴなんで。大した理屈じゃないんですけど」 窓の外に視線をそらして、元帥はあっさり教えてくれた。 遠征で死んだって聞いて、貴方どう思います? 部外者なら、軍人だから殉職もしょうがないって、泣いて、悲しんで、それでも諦めるでしょう。 でも僕らは、軍の内情を知ってる。 殉職なんて綺麗なものじゃなくて、理不尽な命令に無駄死にさせられたんだって、怒りたくもなるでしょう。 だけど、誰に怒ればいいんですかね。 彼に致命傷を与えた敵ですか、現場指揮官ですか、出陣命令を下した上層部ですか。 勿論全員を殴り飛ばしたいでしょうけど、他軍が責任の所在なんか教えてくれるはずもない。 結局は呑み込むしかないんです。 厳しい目をしていた元帥は、不意にくるりとこちらを向いた。 「遠目。やり場のない怒りを呑み込むと、どうなるか知ってますか。」 質問返しに、俺は足りない頭を慌ててひねった。 「ええと…ストレスになる…とか」 元帥は笑って、そうですね。と頷いた。 ストレスになって、腹の中に溜まります。 行き場がないから消化もされない。 やがてそこから腐って、人を駄目にする。 「だから早めに発散させた方がいい、というのが僕の持論です。」 よっこいせ、と元帥は年寄りじみた掛け声をつけて立ち上がった。 つられて腰を上げかけたところに、含み笑いのような視線が落ちてくる。 「うちの大将、ただでさえ酒臭いのに、腐臭までしてきたら最悪だと思いません?」 俺は思わず笑って、それからこの場にいない大将の代弁をした。 「『お風呂に入らない元帥に言われたくない』って、きっとおっしゃいますよ」 「あー、それは一本取られましたねぇ」 入り口に向かう元帥を追いかける。 「じゃ、負けたのもわざとですか?」 「まさか。そんなことしたらあの人余計腹に据えかねるでしょう。加減なんてしたら僕のほうが危ないし」 「・・・勝っちゃったらどうなさるおつもりだったんです」 「その時はその時でしょう。一通り暴れたら、多少はすっきりするんじゃないですかねー」 「はぁ。」 鍛錬場から出ると、いい風が吹いていた。 元帥の腕からツンとする湿布の匂い。 「貴方の処置は適切ですねぇ。治りが早そうですよ」 ・・適切かどうかは、分からない。 ただ、出来ることをやっただけだ。 俺も。元帥も。 経過がよければいい。 大将の去った方角を眺める元帥の横顔に、そう思った。

―――Fin―       殴り合ってみました。