ごめんなさい。 ごめんなさい。もう、こうする以外になかったのです。 顔を白くして立ち尽くす、墓前の兄に頭を下げた。 泣いて欲しかったのは、兄さん、貴方ではないのです。

僕が死んだのは夏の盛り、盆を半月後に控えた夜のことでございます。 死因は、阿片による中毒死でした。 僕と兄は、生前ひどく仲が良かったわけではないのですが、親のいない二人暮らし、更に兄は薬師として生計を立てて居りましたので、ただ一人の肉親が薬に溺れて死んだことは、相当に耐えがたかったことでしょう。 面倒くさがりで頑固で。変わり者な兄ではございましたが、根は人一倍、優しい人でしたから。 しかし僕というのは、身勝手な男でございます。 兄が自責する様に申し訳ないとは思いつつ、葬儀の列に目を走らせ、あの人を探しておりました。 あの人さえ僕の死を悼んでくれるなら、もう、それだけで成仏できると信じていたのでございます。 しかしこんな末期を選んだ報いでありましょうか。 どれだけ待っても、あの人は現れませんでした。 死人というのは、四十九日が過ぎたら、自然と逝くべきところへ逝くのだと僕は考えておりました。 それまでには後悔も、未練も慕情も怨恨も、綺麗に浄化されるのだと。 ですからそれまでの間、残した人に別れを告げ、その行く先を少しばかり眺めれば、冥土の土産になるようなささやかな思い出も得られるかと甘い期待もしておりました。 きっと。 葬式の日には何か用でもあったのか、はたまた、うちとは少しばかり家も離れておりますし、手違いで僕のことは伝わらなかったのかもしれぬ。 しかし、祭壇の白布の翻る座敷。 弔問客と線香の匂い。 頭を下げる兄の衣擦れ、低い会話。 ぼんやりと灯る提灯と線香の煙は夏に暑く、時が経つのは遅くなるばかりでございました。 それでも二日、三日と経ちまして、この世に居られる日数が短くなるといいますのに、心残りのあの人は、一向に姿を見せてはくれません。 僕はたまらなくなりまして、死んで尚こんなことをするのははしたないかと思いつつ、あの人の家を訪ねたのでございます。 彼の家は鍛冶屋でしたが、主に営んでいるのは兄であり、彼の方は平素から、賭博場や女郎屋を転々としている人でしたから、僕は留守でないことを祈りつつ、扉の前に立ちました。 戸を叩く術がありませんので、ちょっと躊躇っておりますと、内側から声が聞こえてまいります。 僕はわずかに期待をこめて、そっと中へ入りました。 するとそこにはあの人が、臥しているではありませんか。 彼に何かあったかと、慌てて傍に寄りますと、脇で胡坐をかいていた彼の兄が困ったように言うのです。 「悟浄。もう、寝ろ」 やはりどこか悪いのかと、不安に彼を見つめますと、悟浄は力なく赤い髪を揺らします。 よくよく見れば瞳は濡れ、頬には滂沱たる涙跡、彼が手をつく床板には黒く濡れた水跡がいくつもいくつも御座いました。 「・・・夢を見る」 悟浄の声はひどくひび割れ、からからに乾いておりました。 「あいつが出て来る夢」 いつもの往来をいつもみてぇに、黄表紙を手にして歩いている。 声をかけると振り返って、笑って、俺の名前呼んだりするから。やっぱり嘘だったって、思うのに。 とたんにあいつの目が濁る。 どろりと、融ける。 俺が焦って手を伸ばしても・・・・煙になって、消えちまうんだ。阿片の、煙に。 悟浄は悲痛に眉を寄せ、拳で床を叩きました。 精一杯力をこめたようなそれは、実際弱弱しい音を立て、その固く結ばれた睫毛の間からまた一滴、水が零れ落ちました。 彼の兄はただ静かに、そこで聴いているばかり。 「死ぬほど苦しんでいたのに、気付いてやれなかった。ごめん、ごめんな、・・・・・八戒」 それは聞く者をことごとく哀しませ、憐れみの情を受けるほど、哀切に満ちた声でしたのに。 ようやく呼ばれた僕の名に、僕は、どこか歓喜を覚えておりました。 悟浄の悲嘆は深く、幾日もの間、そうして泣いては眠り、僕の夢を見ては飛び起きる日を繰り返しました。 ものもろくに口にせず日毎精彩を欠く容貌に、僕は心苦しさを覚えながらも、ここまで思っていてくれるのならばもう心残りなどないと、死人らしく心が安らぐのを感じておりました。 いえ、もちろん心配もしていましたとも。ですが、大事には至らないだろうとも思っておりました。 と言いますのも悟浄の兄、捲簾という男なのですが、何といいますか、実に卒の無い男でして。 日がな一日泣いては眠る弟を、叱り飛ばすでもなく慰めを言うでもなく、ただ隣で鍛冶の仕事をするだけなのです。 常日頃は陽気で気安く、別段口数が少ない男でもありません。 幾度かは僕と言葉を交わしたことも御座いますのに、まぁなんて冷たいのかと最初は思っておりましたが、やがて、捲簾が出来得る限り弟の目に映る場所にいることに気がつきました。 そして、寂しがりのくせに人に世話をかけるのを何より嫌う悟浄が、それにどれだけ救われていたことか。傍で見ていた僕には十分に伝わってきたのでございます。 そうであれば、心配は無用と思いましょう。 残された時間を、こうして過ごし、お迎えを待つことになんの不満もございませんでした。 えぇ、えぇ。 其の時は未だ、知る由も無かったのです。 床に散らばる数多の書籍と数千の生薬。 何かを煎じる湯気の中、ゴリリ、と重いものが擦れる音が途絶えた。 草の潰れた青い匂い。 燐寸の灯る響きがして、立ち込めていた蒸気に、煙が混じった。 細い指が煙管をはさむ。 対の手が、はらりと頁をまくった。 僕の葬儀から早くも一月が経った頃。 悟浄の方は相変わらず僕の夢を見るようですが、泣き暮らすには飽いたのか、細々と兄の鍛冶仕事の手伝いを致すようになりました。 僕のいない暮らしに彼が馴れてゆくのは、いささか寂しい気にもなりました。 しかしそれが自然の流れで御ございますし、それを選んだのも僕でございます。僕があれこれ言うなんて、道理に合わないことも、しかと解っておりました。 ですから、悟浄が出掛けると言い置いて、久方ぶりに戸を開けたとき、僕は微かな安堵と諦めをもってその背に続いたのでございます。 往来を歩く悟浄の背は、しばらくぶりの陽光を受けていくらか小さくなったように見えました。 僕の好きだった広い背が、僕の所為でと思いますと、やはり胸が疼きます。 懐かしささえ覚える本屋や、よく行った茶屋の並ぶ本通り、悟浄はあてもなさ気にふらふら歩いては、時折遠い目をして何かを見つめておりました。 それが僕の幻影なら。 そんな淡い期待も無かったといえば嘘になりましょうが、悟浄の褪せた髪やしわの寄った着物の背を眺めておりますと、もう、そのような気持ちも消え失せました。 鳴呼。 悟浄、悟浄、僕の優しい友人。 愛しい人。 僕のためにこんなに心を悩ませて下さったのですね。 ごめんなさい。 ごめんなさい。 でも、もう、こうする以外になかったのです。 もし貴方が僕の恋心に気付いたら、貴方はもっと悩んだでしょう。 柔らかく美しい女子の好きな貴方は、友情を壊したくない優しい貴方は、今よりずっと悩んだでしょう。 だけど僕はこれ以上、この思いを秘めては居られませんでした。 だからせめて、貴方によく似た赤から取れる、あの甘美な毒の手で、貴方を夢みながら死にたかったのです。 「・・・・八戒・・」 そのとき彼が僕を呼んだのは、何の因果で御座いましょう。 僕は思わず『はい』と返事を致しました。 ・・・聞こえるはずなど、ありませんのに。 悟浄はそのまま僕を連れ、細い路地を曲がりました。 僕はふと、悟浄が何処へ向かっているのか気になりました。 この先には悟浄の行きつけの酒場も御座いませんし、賭博場も遊郭も御座いません。大通りに軒を連ねることの適わない、小さく薄暗い店やあまり性質のよろしくない者共の溜まり場などが並んでおりまして、気晴らしの散歩に向くようなところでも御座いません。 ですが、何と申しましょうか、僕にはそのとき不思議な心持ちがしたのでございます。 えぇ、そうですね、あれを予感と言うのかもしれません。 あるいは、ただの予想かもしれませんが。 僕は生前、ここを訪れたことが御座いました。 用があるのはただ一つ、突き当たりの右手奥、穴の開いた庇の下。古びた木戸を三度叩き、押し開けて進む軋んだ廊下、そのまた向こうの饐えた匂いの致します、暗く細い階段をゆっくりと下へ参るのです。 けれども、そこへ悟浄を伴ったことは、一度としてございませんのに。 悟浄は木戸の前に立ち、三度の合図をしたのです。 僕は、呆然とその背に訊ねました。 何故、と。 「・・・・・・阿片なんかにゃ興味はねぇが・・八戒が最後に見たものには、興味がある」 そう、其処は阿片窟。 明かりもつけず部屋の前に座る老婆は、悟浄を見て、皺に沈んだ目を開き、それからくしゃりと細めました。 「おやまぁ兄さん、これはまた。いい色の髪をお持ちだね」 「一月くれぇ前、俺と同じと年頃の綺麗な顔した男が来なかったか」 あぁ、誤解の無いように申し上げて置きますと、悟浄は平素、非常に愛嬌ある人好きのする男でございます。 このような不躾な話し方をするような人ではないのですが、こんな場所であることが、悟浄に警戒させたのでございましょう。 けれども、老婆の態度は豹変いたしました。 「客じゃあないならお断りだよ」 つれなく立ち去ろうとした老婆に、悟浄は己の失策を知り、ようやっと愛想を浮かべました。 「いや、客だよ。貰おうか」 悟浄がいくらか多めに握らせますと、老婆は色目を使って笑いました。 僕はそれに嫌悪を抱きましたけど、何も出来る筈がございません。 ただ、悟浄に一層寄り添ってその老婆を睨みました。 「あぁ来たよ。なかなか育ちの良さそうな色の白いお坊ちゃんだろ?随分気持ち良さそうに吸っていたさね」 老婆は悟浄に結構な上物を手渡しました。 最初は、そうなので御座います。 此れで快楽を覚えこませ、瞬く間に阿片の虜にするのです。 悟浄はそれを受け取ったまま老婆をじっと見下ろしますと、俄かににこりと微笑みました。 「美人だった名残があるな。あと十くれぇ若けりゃ、口説いていたよ」 悟浄!僕ははしたなくも気色ばみましたが、無論伝わるはずがございません。 ねぇ悟浄、もう帰りましょうこんな処。捲簾さんが心配します。 言い募る僕を知りもせず、老婆はしっしと手を振ると、悟浄を残し、そそくさと奥へ消えました。けれども背けたその顔が満更でも無さそうなのを、僕は見逃しませんでした。 此れが世辞であることは重々分かっておりましたが、好意を寄せたその人が、目の前で他人を口説くのを心安くは見られません。 ましてや少し前までは、僕の死をあれほど深く嘆いてくれた貴方が。 あぁ、お願いですから悟浄、あと少し、四十九日を過ぎるまで。どうか僕を乱さないで。 叶わない思いでしたけど、せめて優しい思い出を持ってあの世に逝きたいのです。 ジャッ 燐寸の音は僕には無情に聞こえました。 いくら傍でわめこうと、死んだ僕に口は無く、悟浄は燐寸で火を点し、毒は煙を上げたので御座います。 僕が言うのもおかしな話ではありますが、そのとき僕は酷く狼狽いたしました。 自分がやるのと大切な人がやるのでは、心持ちというものがまるで違うので御座います。 居ても立っても居られませんで、何とか煙管を取り上げたくとも僕の手は風の一つも起こせません。 悟浄は恐れを知らない子供のように、全てをあきらめた老人のように、無垢で悲しげな顔をして、煙を静かに吸い込みました。 薄暗い地下室、煙管の灯と煙で変に白んだ空気と、そこに滲んだ悟浄の赤。 僕はただただ焦るばかり。 悟浄、悟浄、お願いです。止めて下さい、悟浄。 阿片なんぞに興味はないと、貴方おっしゃったじゃありませんか。貴方は知らなくてよいのです。 阿片の味も、僕が最後に見たものも。 僕が阿片で見たものは、優しい貴方の夢ばかり。 貴方には伝えられない思いなら、この胸一つに秘めたまま墓の下まで参ろうと、僕は阿片に手を染めました。 僕が未だ、貴方の善き友人でいられるうちに。僕の抱いた恋心が、貴方を煩わさないうちに。 だから悟浄、貴方は、・・・ つう、と悟浄の芥子色の眼が、涙を零しました。 「もう二度と会えねぇなら、言っとけばよかった」 ・・・好きだったよ、八戒。 ガササササ、と紙がこすれる音がした。 次いで、血を吐くように咽こむ音。 じっとりと湿った掌、汗にぬれる額。 床を覆う散乱した書物の上で、倒れこんだ細い肩が荒い息をついていた。 「は、・・・・とんだ無駄死にですかね。・・・八戒・・」 浮き出た青い血管が、音が聞こえてきそうなほどに脈打っている。 これに何の意味があるだろう。 張り付いた髪を払いもせずに、其処だけ妙に紅い唇が自嘲的に笑った。 貴方に、僕の気分がお分かり頂けるでしょうか。 歓喜と絶望で張り裂けそうになった僕の気分を。 帰り道、日暮れの街道、提灯の灯り始める店先、気の早いつくつく法師の混じる蝉の声を聞きながら、悟浄が夕飯を食べ床に就くまで、僕はずっと考えていました。 待って、待って下さい悟浄。貴方、今、何と。此れは僕の夢でしょうか。 僕はこの一月を思い返し、悟浄の落胆ぶりを思い、ようやっと、これが真実であることを理解しました。 狂おしいほど切ない真実であることを。 鳴呼、鳴呼、悟浄。 僕もです。僕も、貴方を愛しておりました。 深く、深く、この思いに身を焦がし、こうして死んでしまうほど。 何という皮肉でございましょう。こんな話があっていいものでしょうか。 紛うことなき相思相愛であったのに、こんなに幸せなことはありませんのに、もう、僕は死んで居るのです。 この思いを伝えることも、この悲しいすれ違いを知らせることも叶わないのでございます。 何てこと。 如何して言わなかったのでしょう、如何して死んだりしたのでしょう、如何して、 僕の胸は真っ暗な後悔に染まりましたけど、すぐに、あの赤がそこに希望をくれました。 阿片。僕に最期をもたらした毒物。 そうです、僕が其方へ行けないのなら、悟浄を呼んだらいいのです。 僕が生き返れないのなら、悟浄に死んで貰えばいいのです。 この思いつきは、僕を大層幸せな気分に致しました。 ああ、何て単純なことでしょう。何を嘆く必要があったのでしょう。こんなに簡単なことなのに。 だって悟浄は既に、此方への切符を手にしているのですから。 悟浄は見る間に毒に染まり、逝き急いでいるように煙を呑んでゆきました。 僕はそれが嬉しくて、春を待てない蝶よろしく紅花のような貴方の傍をいそいそそわそわまとわりついておりました。 愛しい人を待つ時間というものは、どうしてこんなに世話しなく、永くて幸せなものなんでしょうと考えながら。 えぇ、しかし、心配事も御座いました。 そう、悟浄の兄、捲簾で御座います。 先達ても申しましたように、非常に如才ない男です。 僕にも兄が居りましたが、此方はかなりの物臭で、頭の方はすこぶる出来が良いのですが、一度本を読み始めたら昼夜も寝食も忘れ果てる変わり者で御座いました。 ですからその目を欺いて阿片に狂ってしまうのは、さほど難しくなかったのですが。 しかし捲簾相手には、そう易々とはいかないでしょう。 この人が薬に溺れる弟に気付かぬはずがあるまいと、悟浄とよく似た深い目元が、悟浄のことを射抜く度、僕は恐々として居りました。 それは悟浄も感じたようで、布団をかぶって寝込んだり、気晴らしのふりで出掛けたり、依然と変わらぬ生活を兄の眼には映るよう努めているのが知れました。 隠し事というものは、神経をとみに毛羽立てます。 僕はいつもと同じに捲簾が、火をおこして鉄を打ち、煮炊きして洗い物をする、その一挙手一投足に過敏になっておりました。 いつ捲簾が切り出すかと、我がごとのようにぴりぴりと皮膚まで張り詰めていたのです。 しかし当の悟浄は意外にも、じつに自然に上手いこと時を過ごしておりました。 まるで阿片のことなどは幻か夢であったのかと、時折僕が思うほど。 悟浄は知り合った昔から、大層人の心に敏感で、それと同時になかなかに、器用なところがありました。 世に言う器用貧乏ですが、今回ばかりは器用さがいい目を出してくれたかと光明を見つけた気も致しました。 ですからいくらか経ちまして、何も言わない捲簾に、よもや本当に騙しおおせるかと愚かな希望を抱いたのでございます。 そうこうしている間にも、悟浄の中毒状態は、あれよあれよと深りました。 と言いますのもあの老婆、薬を客に売るときは何かとけちをつけるのを、あのような場所に居りましては年若い男に慣れぬのか、見すえた世辞に頬を緩め悟浄の口車に乗せられて、上物を渡してしまうのです。 僕は未だ老婆を疎んで居りましたが、そうすることで一時でも早く悟浄に触れられるならと、波立つ心を鎮めさせ、彼の死を待っておりました。 えぇ、先を思えばこのようなこと、たいした問題ではなかったのです。 しかし、恐れていたことは起こりました。 古びた木戸に三度の合図。 幾分柔らかくなった秋の日差しを背に受けて何時もの扉を開けますと、薄汚い廊下の壁に背を預けた男の影がゆらりと此方を向きました。 不意に皮膚を撫で上げた冷ややかな空気は、日陰に入った為だけでは、なく。 暗い通路の中、益々黒い双眸が悟浄をひたりと縫い止めた時、僕の体中の血が、真っ逆さまに落ちました。 「・・・・・・・兄貴・・・」 悟浄の声は絶望にからから割れて居りました。 もうその頃には茫洋と定まることの少なくなった虚ろな赤い瞳さえ、この時ばかりは見開かれ、右へ左へ忙しなく瞬いた後に伏せられました。 僕はあまりに動転し、混乱した時特有の奇妙に間延びした時間をどこかで感じておりました。兎にも角にも逃げようと必死に袖を引いたのですが、運も尽きたと言うように悟浄は動きませんでした。 悟浄の肩越しに見る捲簾は、のそりと壁から背を離し、足音もなく近づいて、見る間に風が鳴きました。 ――――――――――ュッ、 ばきりと爆ぜたあの音を、僕は耳元で聞いたのです。 悟浄は軽々飛ばされて、どさりと地に背を着けました。 僕は頭が真っ白で、何かを叫びたかったのですが、空気は喉を透くばかり。 ただただ胸が冷たくて、身動きさえも儘ならぬのを、捲簾はついと歩をつめて、悟浄を足元に見下ろしました。 「目は、覚めたか」 その声はひどく平坦で、そのくせ何処かに温もりを孕んでいるように聴こえました。 悟浄は上を仰いだまま、腕を引き寄せて顔に乗せ、小さく眉を寄せました。 「・・・・うん」 其れは微かでしたけど、僕の耳にも届きました。 それからたった一筋の、こめかみを伝う塩水も。 「帰るぞ」 捲簾が差し伸べた手は大きくて、握り返した悟浄の手をぐいと引き摺り上げたのです。 ・・・あ。悟浄。 待ってください、ねぇ悟浄。 貴方、何処へ行くのです。 立ち尽くす僕の声も其の侭に、捲簾はたった其れだけで、僕から悟浄を奪ったのです。 間違っています、こんな事。 捲簾は助けたつもりで居るのでしょうが、悟浄の真の幸せは、死んだ後にあるのです。 結ばれなかった僕たちが、あの世で寄り添うことにこそ。 激しい禁断症状に、悟浄は手酷く苦しみました。 吐き気に目眩、精神錯乱、捲簾に張られた頬の痣も常にないほど治りが悪く、いつまでも赤黒く腫れたまま、薬を欲しがり暴れては、死んだように眠るのを幾度も幾度も繰り返す。 それは見るに耐え難く、痛みに呻き悪寒に震え、皮膚には掻いた血が滲み、押さえつける捲簾が掴んだ跡まで増えていくばかり。 僕は捲簾に泣いて縋り、どうか辞めて下さいと一人喚いておりました。 このまま居れば悟浄は衰弱するだけです。近い遠いの差はあれど、いずれ悟浄は死ぬでしょう。 ならば苦しませないで。 阿片を、与えて。 しかし頑なに捲簾は、それを許さないのです。 いつまで続くとも知れぬ、生き地獄との戦いを、断固として退かぬのです。 あぁ、何て口惜しい。如何して其れが悟浄を苦しめるばかりだと貴方に分からないのです。 哀れな悟浄は益々やつれ、見る影もなく衰えて、廃人じみて往きました。 悟浄、悟浄。これではさぞや辛かろうに。 ねぇ捲簾、いつまでこうするつもりです、もうそろそろいいでしょう。 悟浄を死なせてくださいな。 死ねば楽になるのです。 僕と幸せになれるのです。 だから、いっそ、殺して。


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