悟浄! 叩きつけらた木戸と、捲簾の怒号。 その背後で転がるようにあの老婆が逃げ出すのを、僕は笑顔で見送りました。 飛び込んできた捲簾は、部屋の中を覗くなり片手を扉に着いたまま、其処で凍りつきました。 薄明かりに浮かび上がる、力の抜けた数多の微笑。 くつくつと篭もる忍び嗤い。 あちらの隅で奇声が上がり、此方で啜り泣きがする。 虚ろな空間、立ち込める煙。 誰も、捲簾のことを振り向かない。 阿片窟の気だるい狂気、捲簾は舌打ちするなり大きく踏み込み、壁の下に横たわる悟浄をがしりと担ぎ上げ、すぐさま其処を後にしました。 悟浄は意識を朦朧とさせ、だらりと下がった手の中から燻り続ける煙管がずるり、滑り地面へ落ちました。 ・・カツン。 がたがたと震えながら夢現に、僕の名を呼ぶ悟浄の声。 あぁ、よくできましたねぇ、悟浄。 今度こそ、阿片の毒に犯されて僕の元へ来ればいい。これでやっと、貴方に会える。 悟浄を横たえ布団を被せ、白湯を作っているうちにすぐに呼ばれた兄が来てガラリと引き戸を開けました。 慌てて脱ぎ捨てられる下駄、沸き始めた釜の湯気、足早に座敷へ向かう足音。 「また阿片に手を出した?何があったんです、悟じょ・・」 開けられた障子。 跳ね除けられた布団。 獣のように俊敏に動いた、赤。 ッグヂャリ 生々しい、肉と血管の裂ける音。 沈黙。 がたん、と、兄が持っていた薬箱が床に跳ね、薬をあらかたぶちまけました。 「―――――――ッ天蓬!」 悟浄!? 激痛に、兄の顔が歪みました。 「天、 「い・・・い、大丈、夫、ですから、」 悟浄を引き剥がそうとする捲簾に手を向け制止をかけて、兄は、その場へ崩れ落ちました。 悟浄を、首筋に、噛み付かせた、まま。 悟浄、悟浄!? 何をするのです、その人は僕ではありません、止めて、悟浄! 僕は慌ててしゃがみこみ、兄に覆いかぶさる悟浄の肩を必死に押し返しましたが、動くはずが御座いません。 捲簾、捲簾!貴方、如何して止めな・・ 縋るように振り仰ぐと、そこには冷たく燃えるよな眼をして黙った捲簾が二人を見下ろして居たのです。 兄は眉を寄せたまま目蓋を下ろして腕を上げ、まるで赤子にするように、悟浄の背中をとんとんと優しく叩いておりました。 じゅるじゅると生き血をすする水音と、それは酷く不似合いで。 僕は、冷えた廊下に座り込み、ただ、見つめることしかできませんでした。 押し倒した兄の首に顔をうずめる悟浄の髪を、どれだけ眺めていたでしょう。 やがて、一際大きくのどを鳴らし、急に悟浄の身体から力が抜けてゆきました。 兄はゆるりと目を開けて、悟浄の首に手を回し、脈を測ると苦しげに溜息を一つつきました。 「・・・捲簾。すみませんが、悟浄を退かして頂けますか」 捲簾が悟浄を寝かしなおしている間、兄はどうにか身を起こし、首に血止めを塗りたくり、乱れた着物を整えると、ようよう立ち上がりました。 「平気か?」 「えぇ。見た目ほど深いものじゃありません」 口でそうは言いましても、肌から血の気が失せていて、隠し切れない鉄臭さがまとわりついておりました。 ・・あれ。 造作に伸ばした髪からちらりと見えた、真っ白な項。 気丈な立ち居振る舞いに日頃は感じませんでしたが、兄は元からこんなにも、線の細い人でしたっけ。 「・・悪い、」 僕や捲簾の心配を兄はさらりと受け流し、悟浄に針を打ち灸を据え、薬を流し込ませました。 「貴方が謝ることじゃありませんよ」 低い空から降り始めた雪が一片舞い込んで、床の血溜まりに融けました。 それを最後にその日から悟浄は静かに昏々と深い眠りにつきました。 そう、眠ったので御座います。 起きず、喋らず、動きもしない。けれど確かに息をして、温かな肌をしているのです。 それでもじきに衰弱し、いずれは死んでくれるだろうと、僕は待っておりました。 なのに、それから一向に、病状は変わらないのです。 あぁ、如何して。 如何して、こうも上手くゆかないのか。 今一度、夢枕に立とうかと何度も試みましたけれど、悟浄は夢も見ていないのかそれとも僕がいけないのか、いつまで立っても悟浄の夢に辿り着けないので御座います。 ねぇ、悟浄、いつまで僕を待たせる気です。あと少し、あと一歩のところなのに。 そんな悟浄と代わるように益々やつれていったのは、兄の方で御座いました。 悟浄が寝たきりになってからも、毎日欠かさず訪れて、あれやこれやと診察しては最後にやはり自分の血を悟浄の口に流し込み、部屋を後にしておりました。 その姿は以前より明らかに肉が削げ落ちて、日増しに小さくなるように僕の目には見えました。 悟浄の平行線な病。 兄の不可解な衰弱ぶり。 如何にもことの原因はあの血以外に見当たらず、僕は兄が手を切る度、よくよく観察しましたが、其れだけでは如何程もことは解決しませんでした。 そして同時に捲簾の兄を見つめる眼差しにも、何か以前と異なるものが混じるようになったのです。 「天蓬、座れ。」 「ありがたいですが、お構いなく」 それでも勝手に二つの碗に米をよそう捲簾に兄が渋々席につく、そんな夕飯の風景が、するずる増えていった、冬の終わり。 「西へ行こうかと思います」 兄が唐突に言ったのです。 「薬に使う材料が西の港に入ったと確かな筋から聞きまして。 これが揃えばようやっと、悟浄の病も治ります。 手に入れ次第調合してすぐに此方へ送りますが、暫くかかるでしょうからね、それまでこれを日に二回、 朝と夕に飲ませてください、幸い悟浄の容態はかなり安定してますから僕が居なくても 「待て待て待て」 向き合っていた捲簾は、ぱちりと箸を置きました。 「とりあえず、西って何だ曖昧な。確かな筋じゃねぇのかよ」 「ですから。不確かで曖昧な情報を一切省いてみたところ、西の方であるという大まかな概容を掴んだわけです」 詳しいことは近づけば段々分かって来るでしょう。正直悟浄を治すには、もうこれ以外の手はありません。 僕は支度が整い次第、すぐにも此処を立ちますから 「俺が行く」 手に持っていた湯呑みをトンと、兄は膝元に置きました。 「俺が行く。その材料を取ってくる。だからお前は此処にいろ」 「・・生憎と、貴方のような素人に正しい見分けがつくような、安易なものじゃありません」 「なら、俺も一緒に連れて行け」 「捲簾。貴方ね・・」 兄は、呆れた様子で燐寸をこすり、ゆっくり煙管に火をつけました。 「悟浄は如何するつもりです」 「お前、西までいけるのか?」 吐かれた煙が幕のように二人の間を漂いました。 「ここのとこ、お前急に痩せただろ。病かなんかじゃ、 「甘く見ないでくださいよ」 兄の眼が、ひたりと捲簾を据えました。 「医者の不養生という皮肉は僕もちゃんと存じています。それから自分の体調もね。お気遣いは気持ちだけ頂きますよ、では」 兄は、一日に二度と処方した薬の瓶をその場において、すくりと席を立ちました。 「待てつってるだろうが」 戸へ向かおうと通り過ぎる兄の手首を、捲簾は強く捕まえました。 「お前、その後どうする気だ?」 調合した薬、こっちに‘送る’つっただろ。 お前はそのあと何処へ行く。帰ってこないつもりか。 兄は捕らえられたまま暫く黙っていましたが、やがて諦めたように戸口を向いて言ったのです。 「・・もう、この街には、弟さえも居ませんから」 兄さん。 春一番がもうすぐの息の白い冬の夜。冷え込む夜気に、その言葉は、こたえました。 兄はゆっくり手を振りほどき、にっこり笑って告げたのです。 「ご馳走様でした。さようなら、捲簾。」 うあぁあん 幼い子供の泣き声を耳にしたのは遅い午前、兄が来なくなってから三日目のことで御座います。 冬の短い陽射しが上り、表通りがしぶしぶと目を覚まし始めた頃。 腹の底から張り上げる幼子らしい鳴き声に、玄関近くの捲簾が戸を開けたので御座います。 蓮向かいの茶屋の前、流しの商人の成りをした人の良さ気な小男が、大きな荷物を其処に置き、子供の前に膝を折り、頭を掻いておりました。 「あぁあぁ、泣くんじゃねぇよいい子だから。あと少しだけ待っとけし。 今になぁ、空の草が手に入る。何百年に一回の、何でも治る薬だよ。したらお前ぇのおっ母さん、きっと治してやるけぇね」 ・・・・え、 次の瞬間捲簾は、男を路地裏に引きずり込み、獰猛な声で唸りました。 「今、アンタ、何つった?」 だだん、と、捲簾が体当たりで鍵を壊し、たたらを踏みつつ破った裏口、前回来た時より更に汚く見える我が家は、埃が舞っておりました。 捲簾はわき目もふらずに奥へ上がり、調薬室へ向かいました。 相変わらずの散らかった部屋。 しかし其処に兄は居らず、火種の消えた煎器は既に白い湯気の一筋も上げてはおりませんでした。 主をなくした道具や家具は、物寂しく見えました。 家の中を歩き回り、何処にも兄が居ないと知ると、調薬室にまた戻り、捲簾は明かりをつけました。 兄が、最も長く居た場所。 薬学書だけにとどまらない書物、開けられっぱなしの抽斗、蓋のあいた生薬標本。 戻ってこないと言ったのに、兄が集めた多くのものはそのまま残っておりました。 何も持たず、兄は何処へ行ったのでしょう。今、何処で如何しているのでしょう。 薬なんかいらないから、戻ってきて。 からりと足元に転がった、兄の煙管。 ふと、それを手に取った捲簾の眼が大きく見開かれました。 ・・・・阿片。 慌てて辺りを見回すと、諸所に阿片の吸殻がぱらぱら零れておりました。 毒と薬は紙一重。この部屋には毒草も、あれこれ御座いますけれど。煙管に詰まった阿片、は。 兄さん。 捲簾は一度家に立ち返り、隣人の家に飛び込むなり悟浄を頼むと言い置いて、すぐさま外へ飛び出しました。 「ちょ、おい待て捲簾、何処に行く!」 「西!」 「は?捲簾!」 捲簾まで、此処を後にしたのです。 僕と悟浄を、置き去りにして。 あの夜から二日と半日、そう遠くには行ってない。 西といったあの言葉が何処まで本当かは知れない。 しかし他に手がかりはなく、悟浄を治すと宣言した天蓬のことを捲簾は未だに信用する気で居た。 あの阿片を見ても。 騙されたとは思えない。あの男は、人を騙す男じゃない。 だが、何かよくない予感がする。 ‘空の草が手に入る’商人は確かにそういったが、それ以上を知らなかった。 如何いうことかと聞かれても。 商人は、困り顔でそう答えた。 俺らの間でそういう風に、噂が流れているだけで。 ‘煙に捲かれた空の草 毒を孕みて薬となる 紅き華をも枯らすというが息の緒さえも千切られる’ 誰かが面白半分に、そう唄っておりましたけぇね、詳しいことは、俺にも。 いや、本当に、それ以上は知りません。怖ぇ顔しないでくだせぇよ。 だけどね旦那、火のないところに煙は立たぬといいますでしょう。 この手の噂が流れると、大体ね、後から答えがついてくる。 大法螺だったりもするが、空の草は昔から伝わってきた話です、こういう噂が立つ時は本物が出てくることもある。 ・・・空の草は、天蓬を指しているんじゃなかったか。 薬。確かに、天蓬は薬師だが。 手に入るような、ものじゃない。 浮世で人一人探し出すのは楽ではない。 それでも人を訊ね宿を訊ね、辿り行いた山間の街。 予期せず現れた捲簾に、天蓬は流石に驚いたが、向かい合って胡坐をかくと、困ったように、笑った。 天蓬。 八戒は、間に合わなかったといったな。 何が。何に。 黙ってきたこと、全て話せ。 弟の異常に気付いたのは、そうですね、悟浄の症状よりももっと末期。 僕が幾日か部屋に篭もり、薬と本に没頭していた矢先のこと。 不眠不休の無理が祟り、昏倒した後目が覚めて、ようやく部屋を出てみたが、いつも居るはずの弟が居ない。 買い物か何かかと思ったが、あまりに留守が長いので家の中を探してみると、納屋の隅でうずくまり、目を見開き涙を流し、動悸・発熱・悪寒に震え、言葉にならぬ何かを、ぶつぶつ呟いていました。 そのときになって初めて僕は、弟がおそろしくやせ細り、引っ掻き傷を全身に作っていること気付いたんです。 納屋から出そうにも激しく暴れ、まるで言葉も通じない。 気絶させて運び出し、あわてて診察してみると、もう、末期も末期の状態でした。 うちの家業はご存知の通り、街中のしがない薬師なんぞをしておりますが、僕はね、読書も趣味にしておりまして。 偶々集めた本の中に、古い秘法、阿片さえ治す方法として、これが書いてあったのです。 天蓬は静かに目を伏せた。 薬師自ら毒を飲み、同時に、幾つかの薬草、鉱物、生薬などを摂る。 すると術者の体内で、毒の抗体が作られる。 抗体を持つ薬師自身が薬となり、身体の一部を与えれば、患者の中毒さえ治るというものです。 ・・・問題は、 風が吹いて唐突に陽が差した。 いや、違う。月。群雲に隠れていた月が不意に現れ、天蓬の髪の上を滑った。 問題は、術者の命が持たない事。 ‘煙に捲かれた空の草 毒を孕みて薬となる 紅き華をも枯らすというが息の緒さえも千切られる’ 息の緒さえも、千切られる。 体内で毒と抗体が争い続け、いずれ術者の体力は尽きる。記録によれば、長くても、数年。 その屍骸は、まさに万能薬になりますが。 天蓬は自嘲的に息を吐いた。 秘法なんて、所詮はこんなものなんです。 犠牲もなしに、効能だけ得られるはずがない。命を奪うからこそ秘められてきた。 見てのとおり僕は使いました。 しかし残念ながら、抗体ができるまでに少々時間がかかりましてね。 八戒は、その間すら、持たなかった。 間抜けな話ですよねぇ。 悟浄が居てよかった。 阿片なんか、手を出さないに越したことはないけれど、これで僕も無駄死にしないで済むってものです。 ・・・・早くないか。 はい? 早くないか。八戒が死んだのは先の夏の話だろう。 あぁ。無茶を・・・しましたから、ね。間に合わないかもしれないと、僕も焦ってましたから。 手順をいくらか早めました。 結果、八戒は死に、僕の死期も早まった。 青い月光の所為ではなく、天蓬の頬は色をなくし、唇ばかりが目立って紅く、よくよくみれば無造作に伸びた髪には、銀色に光るものが混じって居た。 顔には、死期を悟った諦観の相。 抗体は完成しました。 悟浄は、二度目の阿片の衝撃でもう駄目かと思ったけれど、あれは本能ですかねぇ、直後に僕の血と皮膚の一部を自分で食べましたから、どうにか持ち直したんです。 これで僕が死んだ後、死体を捌いて配合しして、きちんと服用すれば、悟浄も元気になりますよ。 捌く。 ええ。あ、貴方がくれた出刃包丁、すごく良い出来でしたから、役に立ってくれそうですね。 天蓬は冷めた緑茶を一口すすった。 春の近い、晩冬の沈黙。 ・・すみません、気分のいい話じゃないでしょう。 でも、これが、僕の黙ってきた全てです。 死ぬのか。 えぇ。 如何しても? 如何しても。 じゃぁ、お前が死んだ後、お前を捌くのは誰だ? 次の朝二人の男が街から消えた。 行方を知った者は無い。 ただ、桜の花が散る頃に飛脚が長屋を訪れました。 届けられた小包みの筆は確かに捲簾の手で、認められた手紙の通り悟浄にそれを飲ませると、終に悟浄は目を開けました。 「おう、起きたか、悟浄」 「・・・・・独学・・?」 「捲簾なら今は留守だ、随分お前を心配してたぞ」 「・・・・・・・・・・そっか・・・・」 兄は何処へ行ったのでしょう。 あの薬は何なのでしょう。 あれは恋の病すら、治してしまったのでしょうか。 悟浄は僕のことを忘れ、捲簾の残した鍛冶仕事に精を出し、今もこうして生きているのです。 僕は、何時までこうしていたらいいのでしょう。 もうとうに、彼岸を渡る方法を忘れてしまったので御座います。 あぁ、其処なお坊さん。 肩にかけた経文で、僕を成仏させてくれませんか。 あるいは懐の銃で、この人を撃っちゃくれませんか。 この街には赤い髪をした男と、僕の死体が生きてる。 fin.