【今はもう遠い音】  ――第一話――




祖父に連れられてこられた屋敷は田舎にあるとは言え立派なものだった。
客間に通され茶を啜っていると、家の主らしい男は部屋に入ってくるなりお久しぶりですと恭しく祖父に頭を下げた。
「お忙しい所にお邪魔して申し訳ありませんの」
「いえいえ、お待ちしておりました。古い家でお恥ずかしいですが、いくらでもご滞在下さい」
 床の間に飾ってある繊細な書の作者は、祖父の前では決して笑顔を絶やさなかった。わかりやすいパトロンと書道家の関係を天蓬は無表情に眺めていたが、少しばかりの雑談の後、祖父の笑顔が微妙に色を変えたのを見て、向かい側に座る男の未来に少しばかり同情した。
「そう言えば、息子さんはお元気で」
 その一言で主人の顔色があからさまに曇った。祖父はそれに気付かないふりをして、茶をゆっくりと啜る。
「――残念ながら、息災ですよ。相変わらず筆も持たずに土いじりばかりしております」
 本来なら口に出すのも煩わしいと言った様子だが、祖父の手前、なんとか笑顔を作ろうと必死になっているのが見て取れた。
しかし眉間の皺を深くしたままの主人の前で、祖父は大きく頷き「実に結構」と言って雄大に笑った。
「実は、儂はその息子さんの器を譲っていただきたくて参上したのですよ」
 初夏の日差しが柔らかく入り込むその部屋で、天蓬は主人の顔が明らかに強張るのを見た。




「行きたくないなら行かなくていいんだが」
 久しぶりの父からの電話はその言葉から始まった。

 祖父の名前は総一と言う。爺という言葉が嫌いで、祖父は孫全員に「総一さん」と呼ぶように早期教育を行った。
 これからみても破天荒なジジイであったが、また同時に、彼は一族の頂点でもあった。
 祖父は曽祖父の代にガタガタに傾いていた屋台骨を、若輩と呼ばれる年齢で完璧に補強し終えた。
そして屋台のペンキを塗り替えネオンを着け、元の状態より立派にしただけでは飽きたらず、ついには遥かに大きく新しい屋台を量産し、結果、彼は一族としてだけでなく経済界の高みにも立った。
しかし、総一の子は六人いたにもかかわらず全てが娘であり、息子と呼べるものはいなかった。そうして娘の心を射止めた男衆は当然のように全員が入り婿となり、その跡を継げるかもしれないという淡い、または色濃い期待を胸に秘めていた。
が、総一は「儂の稼いだ金を誰に譲ろうが儂の勝手だ」と明言し、齢七十八になろうとしている現在でも、いまだ跡継ぎが誰になるのか確定していないというのが現状であった。
よって情けないことだが、皆が皆、あらゆる機会にあらゆる手段を駆使して祖父の機嫌を取ろうと躍起になっていた。
そしてこの夏、父の元に電話があった。祖父からの命令――いや、頼みごとであった。


天蓬の父は母を普通に好きになり、普通の家庭を築くつもりで結婚を申し込んだ。
が、運悪く婿に入った所がコレであったために、大都会に初めて来た田舎少年のような心持ちで、彼は結婚生活を始めなければいけなかった。
資産が目当てでないのなら祖父など気にせず堂々としていればいいようなものだが、元より気が弱かったことが災いし、父はほぼ周りに合わせるように祖父の周りを飛び回り、気疲れをしては母に慰められていた。
そして、まさか訪れるとも思わなかった急な祖父からの要請に、戸惑いを隠せないというのが正直な所で。
なので、自然と電話口での話は恐々とした要領を得ないものになり、天蓬が「は?」と首を傾げていると、呆れた様子の母が受話器をひったくってこう言った。
「貴方の貴重な夏期休暇をお祖父ちゃんのために捧げる気はある?」
実に明確な口上であり、それが天蓬が現在祖父の向かい側に座っているいきさつであった。


 新幹線の中で、天蓬は本を一冊読み終えた直後に祖父に尋ねた。
「総一さん、いつもお一人で行く旅行の共に孫を連れて行くのも疑問ですが、その前になぜ僕なのでしょうか」
「簡単なことだ、お前が水乃に似とるからだ」
 水乃というのは天蓬の母の名前であった。ということは、つまり祖父にとっては娘に当たる。
他の孫は全員父親似で見とるだけで腹が立つとなんとも理不尽な理由を言いながら、祖父は苛立たしげに雑誌のページを捲る。天蓬はそれをそんなものかと大雑把に納得し、間を置かずにもう一度口を開いた。
「では最初の疑問に戻ります、いつもは一人で行く旅行になぜ今回ばかりは孫を連れて?」
「それも簡単なことだな」
 祖父は読んでいた雑誌をパラパラとめくり、あるページを開いて天蓬にそれを寄越した。
 そしてその記事に目を通し出した天蓬の顔を見つめ、上手くやりなさいと柔らかく呟いた。




本家から歩いて二十分、山のふもとにそれはあった。
 昔ながらの日本の旧家といったそれは、本家と比べれば大分小さかったが一人で暮らすには十分な大きさであった。
 いや、ここら一帯の土地がほぼ所有地だと言うのだから、十分どころか百分と言ってもいい。狭いアパートに一人暮らしをしている天蓬にとってはなんとも贅沢な話ではある。羨ましくはないが。
だが、書道家の息子が住む離れとしては、いささか寂しすぎるようにも思えた。
緑は深いが、あたりに人の姿は見えず、どこかで鳶の鳴く、高く澄んだ声がした。


「・・・あの器は、取材を受けた際、話を聞いた記者に話題になるので是非にと乞われて、仕方なく息子に無断で持ち出したのですよ」
 だからお譲りすることは出来ないのです、私が言って聞くような奴でもありませんし、と主人は恐る恐る祖父の顔色を窺いながら言った。確かにあっさり言うことを聞くような息子なら、書道家の父を持ちながらにして陶芸家になんざならねぇわなと天蓬は腹の底で頷いたが、そんなこと、祖父の知ったことではない。
「では息子さんの了承を得ればなんら問題はないと言うわけですな」
 温和な笑顔で、しかしプレッシャーを醸し出すのは忘れずに祖父がそう尋ねると、それはまぁと主人は口の中で小さく呟いた。
 それでもう決定だった。
祖父はにこやかに、ご子息の名は?と尋ね、主人は溜め息をつきながら低い声で、
――捲簾と申します、と言った。


なぜ祖父が自分を連れてきたかというと、歳の近い自分ならその息子に打ち解けやすいだろうという目論見からだろう。
その証拠に息子の歳を聞けば自分より二つ下の十九だと言う。
総一の孫には天蓬より年下のものはいない。それを思えばますます祖父の考えが頷けた。

この家では代々、高校を卒業すると本格的な跡目修行に時間を費やすことになっていたが、長男であり跡継ぎとなるはずの捲簾はそれを頑なに拒んだ。そして離れに住み、この小さな村で陶器を売りながら慎ましく暮らしていると言う。
 若者が隠居生活してジジイが精力的にあちこち飛び回ってるってのはなんか皮肉ですねぇと胸の中で毒づきながら、天蓬は古い木戸を叩いた。
しかし、中から応答が無い。留守だろうか、そう思いながらももう一度戸を叩こうとしたその時、ガタリと音を立てて引き戸が動いた。
戸口から顔を覗かせた青年は背が高く、精悍な顔をしていた。
首からはタオルを下げ、汗ばんだ身体からはわずかに土の匂いがした。見慣れない天蓬に少々面食らっているのかじっとこちらを見つめており、天蓬は慌ててお忙しい所すいませんと頭を下げた。
そして祖父がそちらのお父上の友人で、今母屋の方にお世話になっているのでご子息にも挨拶をしに来たとだけ説明する。最初から商談事を持ち込むのは得策ではないと考えた結果の挨拶であった。
しかし、そこで言葉が止まった。
それは天蓬が捲簾の片眉が上がったのを見たからであり、まずいと思った次の瞬間。
ぴしゃりと戸が閉められる音がした。




蝉の鳴き声が鬱陶しい。
ここに来て早四日目。相変わらず天気は良く空気は暑く捲簾は取り付く島も無い。
戸口を叩いても無視は当たり前。出入りを狙って声をかけても射るような眼で睨まれ口さえもきいてもらえない。
しかしそれを祖父に言ったとしても何の理由になろうか、「そりゃ手強いの」の一言で今日もさっさと行って来いと追い出されてしまった。しょうがないのでなんとも気の長い話だとは思うが、庭先の木陰で延々と捲簾の機嫌が良くなる機会を窺っている。
今はなんとか暇を潰しているが、持ってきた本もそろそろ底が尽きる。いい加減話の一つも聞いてもらいたいのだが、あの態度を見ている限りではどうやら達成確率は低そうだ。

――つくづく、馬鹿みたいだ。

本来なら本がじっくり読める好機に一体自分は何をしているのだろう、こんな馬鹿らしいこと放り出してさっさと東京に帰ってしまいたい、それが天蓬の心の底からの本音だった。
しかし、この四日間幾度もそうしたように、やはり今回もそういう訳にもいくまいと思い止まり、憂鬱げに天を仰いだ。

ここで逃げ帰れば多分、父の胃に穴が開く。
頼りなく、また付和雷同しがちな父ではあるが、他の義兄弟の息子達が政治家や法曹やらを目指している中、天蓬が院に進んで学者になりたいと言った時、反対一つせず頑張りなさいと背中を押してくれた。
そんな父の重荷になるのは流石に気が滅入った。
それにどうせ駄目なら駄目で、たった四日で諦めるのも何か気に食わない。祖父の思い通りというのは正直面白くないが、もう少し粘るのが筋と言うものではないか。
それはもはや意地だった。
そんな所も見越して祖父が自分を連れて来たのではという疑惑も一瞬浮かんだ。
が、それはあえて無視をした。


そうして日も暮れる頃、そろそろ帰ろうかと思っていた天蓬の上で葉がパタタッと音を立てた。
見上げると大粒の雨が空からざかざかと降ってきている。土砂降りのそれはあっという間に周囲を取り囲み、周りの景色が少しだけ白さを帯びた。
その内止むだろうと高をくくっていたが、予想を裏切り雨は執拗に続き、勢いは落ちたもののいつまでたっても止みはしなかった。しかも山間は太陽と共に気温も徐々に落ち始め、薄いシャツに冷気が突き刺さる。ここから本家まで約二十分、濡れ鼠になりながら帰るのには少々気が滅入った。
そうして、もうすぐ止むかもしれないと言う期待の繰り返しの結果、いつの間にか辺りは夜に包まれていた。
天の慈悲を諦め、そろそろ濡れて帰る心の準備をするかと露出した腕をさすっていると、天蓬の耳に戸の開く音がした。
――捲簾。
捲簾は天蓬の姿を認めると、仏頂面でしばらくそれを見つめていたが、やがて諦めたように戸を開けたまま中に入っていった。天蓬はその行動に疑問符を浮かべ、これは中に入って来いということだろうかと最も好意的な解釈をしてみる。
しかし間違った場合が非常に恐ろしいなと躊躇っていると、捲簾が再び顔を出し、指だけでさっさと入れと指示をしていた。
ますます、不機嫌そうな顔をして。




戸口をくぐると、やはり家の中は乾いた土の匂いがした。
捲簾は天蓬を確認するとさっさと戸を閉めて奥に入っていく。天蓬は自分はどうするべきかと土間に突っ立っていたが、捲簾がまた不機嫌そうに振り返ったので、慌てて靴を脱いで座敷に上がった。
畳のひかれた茶の間には驚くほど物がなかった。それほど大きくはない古い卓袱台と小さなラジオがあるのみで、隅に綺麗に詰まれた新聞が、唯一生活感を滲ませていた。
奥まった板の間は台所らしい。暗くてよくは見えないが整理されているようで、ほんのわずかに味噌汁の匂いがする。そんな風に辺りを見回していると、捲簾が奥にあった襖を開け、またこちらを一瞥したので天蓬は前へ向き直り再び足を進めた。

進めば進むほど家の中は思ったよりも広かった。廊下に沿っていくつかの部屋があり、捲簾はそのうちの一つに入って行く。
天蓬はどうしたものかとまた思案したが、そうしているうちに彼はすぐに部屋から出て来た。その手には紺の浴衣があり、一体何をするのだろうと思いながらまた少し進むと、風呂場らしき部屋の入り口の前で天蓬はそれを渡された。
 呆然としていると捲簾がそこで踵を返したので、天蓬は慌てて目の前の男を呼び止める。
「あの!・・・別に、そんなに濡れてませんけど」
 すると捲簾はまた不機嫌そうに天蓬を一瞥し、口を開きかけたが何かに気付いたようにそれを中止するとそのまま廊下の奥に進んでいってしまった。
「・・・なんなんですか」
 思わず滑り出た言葉も、本人の前で言わなければ意味がない。
いつまでもこうして突っ立っているのも無意味に思え、天蓬は溜め息をつきながらも浴室の戸を開けた。


 浴室は古いつくりではあったが、きちんと掃除が行き届いており、使い心地が良かった。
 湯を浴びて初めて自分の身体が芯まで冷えていたことに気付き、情けないと思いつつも捲簾の配慮を認めざるをえない。
借りた浴衣は捲簾のものなのだろう、彼の体躯の良さは十分わかっていたつもりだったが、予想以上に丈が長く、少しばかり屈辱的に思えた。
 そうして浴室を出て元の茶の間に行ってみたが、そこに彼の姿はなかった。
躊躇いつつも引き返して廊下の奥を進んでいくと、ぽっかりとまた広い土間があり、土の入ったいくつもの大きな樽が置いてあった。
そう言えばあの人は陶芸をしているのだと思い返していると、土間の右横の木戸の向こうから何か音がした。
 迷いながらも音をさせないようそっと開いてみると、そこに捲簾がいた。

真剣な表情で一心不乱に土を練っていた。手前から奥に折って伸ばすように、その次はまるで花の文様描くように回しながら土を練り、強く、しかし丁寧に作業を続けていた。
その張り詰めた雰囲気になんとなく声をかけられず、天蓬は黙って木戸を閉じた。
そして、さてどうしようかと思案し始めたその時、土間の左横にも木戸がついていることに気がつき、静かに戸の前に立った。
その扉はまるで人を誘うかのように少し開かれていた。
天蓬が好奇心に勝てず、そっと中を覗くと、そこにあったのは、今、彼が探すものだった。



棚の上には、ずらりと大振りの器が並んでいた。
鈍光を放つ青、厳かな緑、透き通るような赤、とても同じ人間から作られたようには思えない何種類もの陶器が、時を止めたかのように静かに佇んでいた。
素人目に見ても、どの器も文句なしに美しい。
しばらく気が抜けたようにそれらを見ていたが、天蓬は我に変えるとあの器を探した。
記事に載っていた、祖父が欲しがって止まないあの白い器を。

そして奥に隠れるように潜んでいたそれは、写真で見るよりもずっと美しかった。
そっと手に取ると、恐ろしくすべらかで冷たい。きめ細かく醒めるような白はまるで女の肌のようだった。
祖父が見たらますます欲しがるだろうなと思いつつふと中を覗くと、何やら小さな和紙が入っている。
取り出して見てみると、そこには流麗な字で「遠音」と書き記してあった。
不思議に思って別の物も調べてみると、その他全ての器に名前があるようだった。そして、奇妙なことに、

――赤音、裳音、紗音、空音、昂音・・・。

そこにある器全ては「音」の名を持っていた。




 木戸が大きく開く音がした。
思わず弾かれたように振り替えると、捲簾が戸口に立っていた。
しまったと思った。
別にやましいことがあるわけではないが、ますます彼の機嫌を損ねただろうことは容易に予想がついた。
とりあえず怒鳴られるだろうと思って身構えていると、こんこんと沈黙が続き、天蓬は素直に首を傾げた。
よく見れば彼は何かを持っていた。何だろうと目を細めるとなんてことはない、どこにでも売っているようなありふれたノートとサインペンだ。
デザインでも描いていたのだろうかとぼんやり思っていると、捲簾は大きな溜め息を一つつき、ノートに何かを書き始めた。
そして書き終わると、それを天蓬に見えるよう前に出した。
その瞬間まで、自分は何も気がついていなかった。
本当に、何一つ。

『割る気か?』
 ノートに書かれた文字に思わず肩が揺れた。
 捲簾は喋りたくなかったのではない。

喋れなかったのだ。



NEXT >>