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それからしばらく、平凡な日々が続いた。
二人は何にも触れず、ただ共に時間を過ごした、目を、逸らしながら。
そしてある日、天蓬がぼんやり目を開けると、いつの間にか薄い上掛けが身体に被せられていた。
どうやら本を読んでいる内に眠り込んでしまったらしい、時計を見るともう夜中の十二時半を過ぎていた。
そして自分が起きたことに気付いたのか、すぐそばで新聞を読んでいた捲簾と目があった。捲簾は軽く笑うと、そばに置いてあったノートを開いて天蓬に見せた。
『今日は泊まってけ。夜遅く帰るのも、ばつが悪いだろう』
確かに戸を開けさせるのに、もう眠っているだろう家の者をわざわざ起こすのも気がひけた。
それでも返事を躊躇っていると、捲簾が布団をひき出したので天蓬は苦笑しながらその申し出を受けることに決めた。
布団を並べ、明かりが落ちる。
しかし今の今まで眠っていた天蓬はなかなか眠りに落ちることが出来ない。
身体を起こしてふと捲簾を見やり、規則正しい呼吸に微笑むと、何となく顔を覗きこんだ。
――端正な顔だな、嫌味なぐらい。
思わず触れそうになるその指を止めると、天蓬は力なく目を閉じた。
捲簾がここにいる理由を聞いて以来、ますます喉は重くなった。
真意は測れないが、まるで自分の領域に踏み込むなと言われたようで、些細な会話さえ、もうどんな言葉を紡げばいいのかよくわからない。
時間がなかった。天蓬にはもう、器を譲ってくれと持ちかけることはできない。
理由を聞いた今では、なおさら捲簾がここにいる意味を売ってくれとは言えない。そしてそれを祖父に告げれば、祖父はあっさりとこの土地を去るだろう。
何も知らなければ、このまま諦めることしかできない。
しかしそれが捲簾の望む形なら、きっとここで終わらせたほうがいいのだろう、自分のためにも。
――これ以上、惹かれるのはごめんだ。
天蓬は一度だけ溜め息をつくと、布団に戻ろうと顔を上げた。
しかしその途端、世界が逆転した。
『綺麗な顔だな』
自分を見下ろす捲簾の唇が、確かにそう動いた。
起きていたことはすぐにわかったが、押し倒されたことを認識するには少し時間がかかった。慌てて口を開こうとしたその時、捲簾の冷たい手が頬に触れた。
逸らされることの無い視線が段々と近づいてくる。天蓬は、不思議と慌てていない自分に慌て、精一杯の虚勢のつもりで紡いだ言葉は、どこか掠れていた。
「・・・僕は男です」
『知ってる』
捲簾の唇は冷たかったが、口内は暖かかった。
暗闇の中、混じりあうのは息ばかりで、名前を呼ばれないのが少しだけ不満で。
その時初めて、捲簾の声を聞いてみたいと思った。
横で眠る二歳年下の男は気持ち良さそうに熟睡していた。
年齢から見れば普段は大人びた顔も寝顔は歳相応であり、また色々な意味で彼は若かった。
自分ばかりが声を上げさせられ、喉がひどく渇いていた。そっと布団から出て台所で水を飲むと、足の底から伝わる床の冷たさが心地良く、天蓬は小さく息をついた。水が喉を通る感触に目が覚めてしまい、すぐに布団に戻る気になれず何となく奥へ進んでいくと、ろくろが主を待ちかねるように寂しげに佇んでいた。
最初に寝た日から、もう二日がたっていた。
そして何を思ったのか、捲簾はあんなに打ち込んでいた陶芸に関する作業を、天蓬に触れてからは一度も行っていない。
なんだか堕落させているようだとも思ったが、それもいいかという気もしていた。
もう、捲簾といられる時間はそんなに長くはない。床から伝わる温度が、季節が変わることを顕著に教えていた。
あの白い器ももう見納めかと思いながら、天蓬は土間の左の扉をそっと開けた。暗闇の中、ずらりと並んだ器は時が止まったように静かだった。
色をなくした暗闇では遠音を探すのは意外に難しく、天蓬は近くにあった白い一枚を手に取ったが、思ったより軽い質量は遠音のそれではない。
天蓬は目を動かしてなおも探し続けたが、ふと後ろに気配を感じ、捲簾だろうかと特に考えもなしに振り返ると、
そこに、何かが、いた。
動こうと思えば思うほど身体が凍った。
後頭部を引っ張られるかのような圧迫感が前にあった。呼吸が上手くできず、肺の中を冷たい金属でなぞられているかのようだ。
見えないそれはゆっくりと、だが確実に近付いてくる。
そして、ひんやりとして空気が鼻先に、触れた。
その瞬間、持っていた皿が手から離れた。
陶器が床にぶつかり砕け散る音がする。だが、しまったと床を見下ろした天蓬の耳に、陶器が生んだもう一つの音が届いた。
鼓膜が、震えた。
聞こえない、聞こえないのにわかる、これは音だ――声だ。
呆然と立ち尽くしていた天蓬が、気がついたように前方を見ると、
そこには夜の闇だけが、静かに、そして漠然と佇んでいた。
皿を割ってしまったことを告げると、捲簾はあっさりそうかと頷いた。
そして怪我なかったか?と続けると欠けた陶片を拾い始め、天蓬も慌ててそれに従った。
あまりにもいつも通りの様子に、思わず怒ってないんですかと聞き返すとまた作ればいいしとあっさり答えられ、天蓬はその淡白さに安堵するというよりも正直気が抜けた。
そう言えば初めてこの部屋に入った時から、捲簾はここの陶器にあまり執着を見せていなかった。
彼がここにいる理由であるにしては、反応があまりにも簡単すぎやしないか。思えば思うほど不可解で、天蓬は捲簾の横顔をそっと盗み見た。
その顔に確かに、怒りはなかった。
しかし表情は消え、視線は深く、そして唇が、また作るのかと重たげに動くのを見た。
翌日、家を出る前に捲簾の父親と廊下で顔を合わせた。
彼は天蓬に毎日大変ですねと声をかけると、少しばかり声を潜めて天蓬に言った。
「お気を悪くしないでいただきたいのですが、あまりあれにはお近づきにならないほうがよろしいかと」
「・・・あれとは、ご子息のことですか」
「他に誰がいましょう。我が子ながら気味の悪い」
あからさまな嫌悪の言葉に天蓬が眉を顰めると、この家の主人はますます声を落として天蓬の耳に囁いた、
あいつの器に使う土は、母親が死んだすぐそばで取れるのですから、と。
こういう時、顔が良くて良かったとつくづく思う。
前に話した女中は、天蓬が手を握って頼み込むと顔を赤くして、捲簾のことを話し出した。
捲簾様は、とても優秀なお方でした。
書の腕も申し分なく、跡目として旦那様も大層期待しておられたのですが、奥様が亡くなった後、書をお書きになるのをぴったりおやめになってしまって。そして入れ替わるように奥様の窯場に篭られ、ついには声まで・・・。
お医者様にもずいぶんお診せになったようですが、結局とうとう治りませんでした。ご本人があまり気になされていないのだけが幸いです。
あぁ、あの家は、亡くなった奥様が近くの民家を買い取って改築なされたものですよ。
奥様は陶芸をお家芸とする方で、書の道一筋を歩んできた旦那様は結婚した当時から奥様を軽んじておりました。
そうして捲簾様が産まれた後は外に女性を作り、お屋敷にさえ滅多にお戻りにならなくなりました。
しかし奥様は旦那様がご不在の間、当てつけるように、あの家にお移りになって捲簾様に陶芸を一からお教えになったのです。
いびつな形ではありましたが、奥様はその時はまだ幸せでいらっしゃったのでしょう。しかし、それも長くは続きませんでした。
捲簾様は、ご長男でしたから。
七歳のころ、旦那様は捲簾様を奥様から引き離しました。
そうして親子も夫婦も、ずっと別れてお暮らしになられることになり、奥様は随分寂しい思いをされたのでしょう。夫にも子供にも顧みられることなく、たった一人で長い年月をお過ごしになって。
そしてとうとう、捲簾様が東京の高校を卒業されてご実家に戻られた次の日、奥様は帰らぬ人となりました。
――ご自殺でした。
話にじっと耳を傾けていた天蓬は、彼女が話し終えた後、重たげに口を開いた。
「――捲簾の、母親の名前は?」
聞かなくても、本当はわかっていた。もっと正直に言ってしまえば聞きたくなどなかった。
しかし、確認しなければいけないことだった。
「奥様の名前は、遠いに音と書いて――遠音様と仰います」
「・・・母さん」
あらぁと言う声の後に、元気?ごはんちゃんと食べてる?と、電話をするたび繰り返される馴染みのフレーズが続き、天蓬は思わず苦笑する。
元気ですよと応じてからしばらく祖父の近況を報告した後、天蓬は携帯の背を指でなぞりながら母に尋ねた。
「母さん、親にとって子供って大事ですか」
「当たり前じゃないの」
何の迷いもなく呟かれた言葉に、思わず頭が下がった。
おかしなこと聞く子ねと呟く彼女に天蓬は笑って返したが、自分のこれからしようとしている事が誤りのような気がして、自然と視線が下へ向いていく。
そうだ、わかっていた、そんなこと。他人が介入していいことじゃない。――でも。
「・・・でもね、子供は親のものじゃないし、親だって子供のものじゃないのよ」
いつもと変わらない、けど凛とした声だった。
「お爺ちゃんがあなたに何をさせたいのかは知らないけど、どうしても嫌ならお父さんの胃壁なんか気にしないで帰っていいのよ」
それぐらいの甲斐性はお父さんにもあるの、見えないけど、と言って母は軽く笑う。何も言わない息子を諭す声は、ひどく柔らかかった。
「親はねぇ勝手に子供を愛してるだけよ、勝手に、あくまで勝手にね」
自分のやり方しか知らないの、だから時々間違うわ、それで傷ついたり傷つけたりするの、愛してるのにね。
その時初めて、天蓬は言葉に混じった感情にふと気付く。当たり前のことだが、彼女は自分の親であると同時に、祖父の娘なのだ。
「でもそれでいいの、正しい愛しかたなんて誰も知らないもの。その代わりに子供もワガママでいいの、譲れなくていいのよ」
天蓬は通話が終った後も、しばらく手の中の携帯を見つめていた。
空は青く、耳には最後の母の言葉が穏やかに、しかし確かに残っていた。
――あなたの、思う通りやりなさい。
天蓬は大きく息を吸い、頬を軽く叩くと、意を決したように捲簾の家の戸に手をかけた。
『土取りにちょっと出るけど、お前どうする?』
「僕は留守番してます、いってらっしゃい」
天蓬が本から目を離さずそう答えると、捲簾はそれじゃあ一時間ぐらいで戻るとあっさり家を出て行った。
しばらくしてその姿が見えなくなったことを確認すると、天蓬は身体を真っ直ぐに伸ばし、奥の土間の左横の扉を大きく開けた。そして一瞬、捲簾が出て行く時、顔を上げなかったことを後悔した。
笑顔を見る、最後のチャンスだった。
彼はもうきっと、自分を見て笑わないだろう。
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