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天蓬は最後にそれを持ち上げた。
白く滑らかな器は、窓から入り込む残暑の光を受けても、やはり痛いほど冷たかった。
足元に転がる大量の破片に少しだけ視線をよこしたが、天蓬はそれら全てを振り切るように目を閉じた。
「何があったかは知りません」
間違いかもしれない。こんなことをしても何も変わらないのかもしれない。
あの時感じたあの凍るような空気も、耳に響いた捲簾の声も、全てが自分だけの幻かもしれない。
それでも、自分の推測に少しでも未来があると言うのなら。
「――僕は、あの人の声を聞きたい」
窓から差し込む光の中で、天蓬はその白い器から静かに指を離した。
昨日まで降り続いた雪のせいで、すっかり白く染まった道を見て、やれやれと溜め息をつく。
早めに土を蓄えていて良かったと思いながら雪かきをする手に力を込めた。
山間の空気は冷たいが、動いていれば熱が身体を温めてゆく、ただ時々胸を掠める寂寥だけはどうしようもないが。
しかし、ふと耳を澄ませば、雪を踏みしめる足音が聞こえた。予定より随分早いなと思いながらスコップを置いて捲簾は片手を上げた。
「よう、来たか」
捲簾が変わらぬ笑顔でそう出迎えると、天蓬はどうもと言って小さく目を細めた。
「・・・知ってたんですか」
「まぁ、なんとなく」
自分の身体だしと捲簾は割れた欠片を踏まないように天蓬に近付いた。
全て粉砕された己の作品を見ても、土を取りに行って戻ってきた彼の顔には激昂の色は見られなかった。
ただ天蓬をじっと見つめると、顔に笑みを浮かべたまま「ただいま」と一言呟いた。
お袋は親父が嫌いだった。
最初から嫌いだった訳じゃないが、最後には嫌いになってしまった。
「捲簾、あなたは母さんのそばにいてね」
幼い頃何度もそう言われ、俺はそのたびに頷いた。子供ながらにそう言えば母さんが笑ってくれることを知っていた。
母さんが好きだった。大事だった。
しかし俺は、親父の息子でもあった。
俺が七歳になった春、親父は俺をお袋の所から連れ出した。
当時お袋は半狂乱になったが、俺がこの家に来るのを咎めないと父親に約束させる事で何とか平常を取り戻した。
お袋は信じていた。俺がお袋を決して見捨てないと、幼い日の約束を頑なに信じていた。
しかしそうはならなかった。
親父は書のことはもちろん、俺に跡取りとしての自覚をみっちり教え込んだ。
子供だった。親が全てだった。与えられた言葉は全て真実だと信じていた。
親父に教えられれば教えられるほど、俺の中でお袋の存在は小さくなっていき――いつのまにか、重荷のようにすら感じるようになった。
最初は毎日だった面会の回数が徐々に減り、中学を出る頃には月に数回会えばいい方になっていた。
中学を出て東京の高校に通うことが決まり、明日には地元を出ると伝えに来た日、お袋は最後に震える声でこう言った。
「高校を卒業してここに戻ってきたら、きっとまた会いに来てくれるわよね?」
俺は約束した、一番に会いに行くと。
しかし郷里に戻った日、俺はお袋に会いに行かなかった。
そのときの俺は、これからのことに頭が一杯で、親父の元で始まることに頭が一杯で、お袋にまで気を回す余裕がなかった。
――いや、本当はあったのかもしれない。だが、長く離れた歳月が俺のお袋への意識を希薄なものにしてしまっていた。
翌日、お袋は首を吊り、冷たくなって発見された。
多分、一日中俺の帰りを待っていたのだろう、
家の卓袱台の上には、食べ切れないほどの料理がそのまま残っていた。
遺書には恨み言一つなかったが、俺が殺したと思ったよ。
皮肉なことに、もう会えなくなった途端、過去の記憶が濁流のように頭を流れ始める。幼い日の約束も、この土地を離れる時交わした約束も、全てが俺の中に残っていた。そして自分が今までお袋にしてきたことの記憶も確かにそこにあり、俺はやっと自分の愚鈍さに気付いた。
そんな俺のそばで、事務的にお袋の処理をする親父の姿に寒気がした。
妻が死んだと言うのに少しの悲しみの色も見せない人だった。
そして、俺はただこの男の跡を継ぐのために生きてきたのかと思うと、吐き気で喉が痛んだ。
「だから、この場所に帰った。今さらもう遅いとわかっていたけど、帰りたかった――帰るべきだと思った」
最初は、弔いのつもりだった。
お袋の死んだ場所はよく知っていた。良質の土が取れる秘密の場所だと教えてもらったのは、俺がまだ筆を書を覚えるよりずっと前の頃の話。
ガキの頃に習った陶芸のイロハは思ったよりも鮮明に記憶に残っていたが、それでも昔のようにすんなりとはいかなかった。
それでもお袋の遺した物を読み漁って、どうにか作ったのが遠色だった。
出来上がった器を眺めていると少しだけ罪悪感が鎮まった、だから俺はそれを作り続けた。
弔いになると、許されると信じて。
だが異変はすぐに表れた。
器を作れば作るほど、だんだんと声が喉を昇らなくなっていく。
どんなに高熱で焼いても、出来上がった器はどこまでもひんやりと冷たかった。
けど、お袋の気が済むなら、それで償えるのなら、声ぐらいどうってことはなかった。
お袋の気の済むまで、どんな風になっても俺はここに居ようと思った。
けど、いくら練ってもひんやりとした土に触れていると、まるで冷たい手にずっと握られているような気分になった。
それでも独りで過ごす時間は予想以上に長くて、何かしていないとますます気が重くなる。
だが、作れば作るほど、許されているというより、お袋のいる場所へ近付いて行くような気がして。
そろそろおかしくなりそうだって思ってた時に――お前がここに来たんだよ。
「総一さん、金はいくらでも出すと仰った、あの言葉に嘘はありませんか」
庭の向日葵を背景に戸を開けた孫の顔を一瞥して、総一は短く言った。
「くどい」
「――それならば、あの男ごと買い取ってはいかがでしょう」
「・・・お前、何を言って」
「本気です」
真顔で返す天蓬の顔をじっと見つめながら総一は煙草に火をつけ、ゆっくりと煙を吐き出した。
「惚れたか」
途端に強張る孫の顔に緩く口角を上げ、祖父はまた深く煙を吸い込み、天井を仰いでそれを吐き出した。
そして天蓬に身体ごと向き直ると、今日の天気を口にするかのような口調であっさりと言い放った。
「天蓬、儂の跡を継ぐ気はないか」
突然の大きすぎる話題転換に、天蓬はぎょっとしながら祖父の顔を見つめた。が、総一の顔からは冗談めいた色はひとかけらも見つけられない。
予想外の展開に頭が混乱した。しかし落ち着かなければ、話をしなければ。
あの人のためではなく、まず自分のために。
「・・・それこそ、「器」じゃありません」
祖父はその答えに顔全体で笑った。
なかなか洒落が効いているなと愉快そうに顎を撫でると天蓬に向かって、いい窯を探してやると満足そうに呟いた。
夕方からまた降り出した雪は、夜の中でもその白さを失わなかった。
捲簾からコーヒーを受け取り、一口飲んでカップを置こうとした時、台の上にある手紙にふと気付いた。捲簾は天蓬の視線の先にあるものに気付き苦笑して、親父からの手紙とあっさり告げた。
「引き取った愛人の子がサッカー選手になるって言って、字の練習するどころか筆も持たねぇんだと」
賢明だなと捲簾は穏やかに笑い、つられて天蓬も緩く微笑んだ。それは要するに、だからお前が戻って来いという手紙に相違ないのだろうが、捲簾の横顔からはその意思は微塵も感じられず、天蓬もその小さな夢に素直に笑うことにした。
「今度は、しばらくいられるんだろ?」
「えぇ、そのつもりですが」
「じゃ、もう一度なんか作ってみるか?」
今度は上手くいくと思うぜと顔を寄せる捲簾に、天蓬はどうでしょうねと微笑みながら近づいてくる唇を手のひらで塞いだ。
夏に作った土の器は粉々に砕け散った。
だが、彼の言う通り、今度の器はきっと上手くいくだろう。
新しい家はやはり前と同じように乾いた土の匂いがしたが、空気は暖かく、また柔らかかった。
季節は巡り、外からは雪の、そしてすぐそばからは捲簾の声がする。
あの夏の蝉の声も、捲簾が最初に呼んだ天蓬の名も、
今はもう、遠い音。
―――Fin―
リク内容は捲天で、キーワードは「グランドピアノ」か「陽の溜まる場所」か「音の器」でした。
こういう話になったのも長くなったのも、私が色々冒険しすぎたからです(自覚アリかよ)
天蓬が3話で陶芸中思い出した映画は「ゴースト」です。 まぁ、そういうことです。
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